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「一人」か、「独り」か

以前Twitterか何かで「一人は好きだけど、独りにはなりたくない」という投稿を見た。

なるほど、面白い。
軽くネットで調べたところ、両者は基本的に同義だ。だが、「一人」は単に人数に焦点を当てた表現なのに対し、「独り」は主体の印象が伴う場合が多いようだ。私が見た投稿の場合、「独り」というのは「孤独」の印象と相まって、「独りぼっち」などの寂しい印象が強いように思われる。「一人の時間は大事だけれど、本当に独りぼっちになるのはいやだ」という内容とでもいうのだろうか。

私はひとりでいるのが好きな人間だ。人といるとどうしても色々考え込んだり、気を使いすぎてしまう。それが気遣いであり思いやりであるのは確かなので、基本的には人との付き合いとはそのようなものだと思うが、やはりわたしにはそれが少し息苦しいのである。
大学生活を振り返れば、コロナで後半の2年間をほぼ家で過ごしたことは言うまでもない。しかし、コロナに関係なくサークルは途中でやめてしまったし、学科はゼミ制度がないので横の繋がりも特にない。大学では、学食たべたり図書館で本を読んだり、時々ちょっと美味しいご飯屋さんに行ったり、基本的にひとりでフラフラとしていた。

ひとりで行動するとわくわくする自分がいる。それ自体がイベントと化すような感じがする。
この前は、「ゲッベルスと私」の最終上映を観に神保町の岩波ホールに行った。「せっかくだから近くのtamtamという有名なホットケーキ屋に寄って行こう」と、おしゃれをして、好きな本を持って、少し早く家を出る。
お店に着いて、列に並ぶ。前後がカップルでも気にしない気にしない。本を読みながら、待つ。ホットケーキを注文して、また待つ。
しばらくするとホットケーキが運ばれてきて、私は一枚だけ写真を撮ってから、食べ始める。

美味しい!!

ああ、今幸せだな、と。おそらく、ここ最近で1番幸せで、とても穏やかな時間だったと思う。友達と行くのとは全く違う楽しみであり、私はこんな時間が本当に好きなのだ。

あの時間はまさに「独り」である。
私が思うに、それは他者との関係性をとっぱらって単に一人でいる、「ありのままの/素の自分」と言われるような状態よりも、もっと特別な状態だ。独りでいるというのは、いわば「自分」からの解放みたいな状態なんじゃないか。
他者と一緒にいるとき、他者というよりも「人と一緒にいるときの自分自身と向き合っている」と言ったほうが適切な表現な気がする。人付き合いが息苦しいのは面倒だし気を使うからであるが、私が本当に面倒くさいと思っているのは、他者ではなく、他者といるときの自分自身なのだ。

私が好きなのは、自分自身から解放され、何者でもない独りのときである。むしろ一人のときこそ、友人や知り合いが楽しそうに出かけたり遊んでるのを横目に、むしろ虚しく、寂しくなってくるのではないだろうか。

Twitterの投稿の真意はわからないが、私ならば「独りは好きだけど、一人にはなりたくない」と言うと思う。

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