見出し画像

#9 11月初めのよく晴れた秋の休日に宇治の窯元・朝日焼で初めて茶盌を買うことについて。

どーも。編集長の松島です。

世間がハロウィーンで賑わう10月31日の誕生日に、ふと「お茶を始めよう」と思いたち、文化の日の翌日となる11月4日のよく晴れた休日に、朝日焼さんの茶盌を買った。いたく気に入っている。木箱から取り出しては、ためつすがめつ眺めたりしては、悦にいってしまう。といっても流派がどうとかお稽古に通うとか、そういったことはいまのところ考えてはいない。ただなんとなく2,3年ほど前から(まあつまり50歳になった頃から)、自宅で、自分で、お抹茶を点てて飲みたいなと思うようになったのだった。でもその程度の認識であっても「お茶でも点てるか」と思った途端に、以前よりも季節ごとの和菓子やお花への関心がより強まったという感覚はある。これまでも桜餅、水無月、亥の子餅などは節目節目で買って食べてはいたが、せっかくなら上生菓子を買ってみようかな、とか思い始めたりするから不思議なものである。

とくにきっかけや理由のようなものはないのだけれど、あえていえば50歳を過ぎて、さすがに自分の趣味が一周して飽きてきたことが挙げられる。これまでの趣味といえばおもに音楽を聴いたり映画を見たり本を読んだりすることなのだが、まあさすがに新しいものにほとんど関心が向かなくなってきた。中学生の息子がいるのでボカロなんかも聴いたりするし、ふつうの50歳よりは知ってるほうだと思うが(みきとPやまふまふ、40mpはけっこう好き)、それでも個人的にはやはり古典やむかしの名作、あるいは青春期に自分の人格形成に影響を与えた時代(今年はその時代の作家やアーティストなどがたくさん亡くなった)の音楽や映画や本に限られた時間的リソースを割くことになる。そしてそうなるとまったく新たな刺激というものはあまり得られなくなってくるものなのだ。もちろん再読によって新たな発見なども、多々あるにはあるのだけれど(ビートルズの「新曲」とかもね)。

それと、もうかなり前のことなのだけど、かつて陶々舎の中山福太郎さんとお話をしたときに生活のルーティーンや作法の話になって、ぼくが「食卓での食器の並べかたや、洗い物の順番など、自分の中での決まり事があって、そのとおりにやらないと気が済まない」みたいな話をしたときに「それはすでに茶道ですよ」といわれた言葉がずっと身体の中に、漂うようにとどまっていたこともある。腑に落ちたというか、自分のなかに明確な定点を決めておく、だからこそ必要に応じて外していくこともできる、という子供の頃からの無意識的な性分は、仕事のやりかたや暮らしかた、ひいては生きかたにも通じていると感じていたからだ。

たとえばこの夏にお香に凝り始めたのも、原稿を書く前に机を片付けてコーヒーを入れてという従来のルーティンだけでは、なにかもうひとつ足りないと感じていて(というかたぶんそれは歳をとったことで集中力が落ちてきたこととも関係していると思うのだけど)、ともかくそれでお香を焚くことにしたのだった。箱から取り出し、マッチを擦って、お香に火を移す。煙があがり、それを香立てに立てて机に戻ると、部屋に香りが満ちていく。そういう一連の行動が原稿作業に没入していくための儀式のような感じ。こういう「動作」「所作」みたいなものの持つ「魔力」のようなものは、むかしからけっこう大事にしてきた。レコードなんかもそう。袋から取り出し、セットして針を落とす。デジタル化された文化が味気ないのは所作がないからだと思うのだが、いっぽうで茶道というのは、まさにこの「所作の魔力」の権化のようなものだ。だから満を持してというか、まあぼくときみはいずれ出会う運命だったよね、という気はなんとなくしているわけなのだ。

ともかくよく晴れた11月初めの秋の日に、実家に寄ったついでに朝日焼さんに伺った。数ある器のなかで朝日焼さんの茶盌にしようと決めたのは、以前ENJOY KYOTOで朝日焼さんを取材させていただいたときに「宇治川の水と宇治の土と宇治の松割木の火でできている」というお話を伺ったことや、自分が多感な少年期から青年期の多くを宇治で過ごし育ったことがやはり大きかった。地縁がある。これはやはり大事なファクターだと感じたからだ。

お店にずらりと並ぶ器などを眺めながら、やはりキレイな水色の茶盌が朝日焼らしくていいかなと思いつつも、オンラインショップで見て気になっていた黒の茶盌のことがどうしても引っかかっていた。店頭には見当たらなかったため店員さんに尋ねてみると「在庫があるのでいま工房からお持ちします」とのことだったので待つことにした。

しばらくしたら、なんと松林俊幸さん自らお持ちくださって、同じ黒の茶盌を3つ並べていただいた。パッと見は同じだがいろんな角度からよくよく見てみるとそれぞれに違っているし、手に持った時の感触や印象も異なる。「どれがいいと思いますか?」という言葉が喉元まで出かかったが、グッと堪えて引っ込める。こういうのは自分の直感を信じたほうがいい。ひとつを選びとる。もし隣に器にくわしい人がいたら「ふん、素人め、そっちを選ぶバカがどこにおるか」なーんていうかもしれないけれど、そんなことはもうぜんぜん関係ないのだ。直感と縁。いま、ここで、俊之さんがサッと並べてくれて、美しい秋の午後で、目の前に3つの美しい茶盌が並んでいる。母と妻と息子(次男坊)が一緒にそばで眺めていて、その背景には宇治川の流れが見えている。その限られた状況において自分が「それ」を選んだ。そのことこそが唯一の正解なんだとぼくは思う。それこそ「一期一会」であり、お茶の精神にもきっと通じているはずだから。せっかくならお煎茶や紅茶、中国茶なんかも器など含めて凝ってみたいと思うが、凝り始めるとキリがないので、ひとまずはお抹茶を点てることに専念したい。

というわけで、そのようなささやかなドラマを経てわが家にやってきた朝日焼の美しい茶盌。まだ茶盌以外のお茶道具なんかはこれから、というところ。といってもお稽古とか茶会とかは考えておらず、ひとまず自宅で点てるだけなので本当に最低限でオーケーだし、そもそも、そっち方面の知識もまったくないので(なにかおすすめとかあれば教えてください)、ひとまずいろんなものを見て、ひとつひとつ集めていって、そうだな、新年のお正月にはお茶を点てられたらいいな、くらいの気持ちで、新しい年と点茶デビューをひそやかに(そして勝手に)楽しみにしている。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?