千戸不易

久しぶりに会った。去年久しぶりに会って新宿から家まで歩いて帰った雨のあの日に感じた今ここで改めて言葉に変換するのなど恥ずかしくてできない気持ちのいちぜプトも同じ気持ちが湧き和がってこなかった。なんでだろう。私が変わったから?相手が変わったから?わたし正直今悲しくて苦しいんだけど、その気持ちの詳細とか内訳とか順に吐き出していってくだらないって思われたらどうしようって思った。私のウダウダ見せれなかったな。去年会った時に座っていた場所が苦しくなかったって言ったら嘘になる。けど、あの時はまだ今みたいに自分がどこに立ってどこに向かっているのかわからないなんてカオスな状況ではなかったことは確かだった気がする。それに対して、今私はつるんと剥きたて卵の心の状態で会える人は少ない。曝け出せば出すほど気持ち悪くなるからだ。だから、相手を目の前にして、『私今気持ち悪いです。あなた気持ち悪くないと思うけど、私の気持ち悪いに少し付き合ってくれたら嬉しいの』ってさらけ出せる人としか会えない。そしてつるんと剥きたて卵な心でないのに、大切な人と会うということは他人と模範解答の会話をするよりも私にとっては何倍にもしんどい事なので、今人に会おうと誘われると気分が乗れない。外に出ても大好きなはずの音楽を可能な限りに大きくして耳栓がわりにしてることに申し訳なるから家にいたい。今までは音楽のその奥に聞こえる雑音も愛せた。と言ったところだろうか、私の変わったところというのは。相手が変わったところは何だろう。蜘蛛の糸状態の方が影影しいところが魅力的だったのだろうか。影にまで光の当たっている気持ち悪さがあったのだろうか。たくさんの異文化コミュニケーションをし生き生きと日々を積み重ねスピッツの恋する凡人の詩に感動し、アメフト部に嫌悪を抱くその姿に範疇を超えてくる要素が何もなかったのだろうか。
人とは難しいものだ。人とは勝手なものだ。
あなたを取り巻く何が変わってもあなたの不変を見つけて愛してみせる。
みせたい。

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