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言葉になるときの膜に苦しんでいるので

誰かに自分の考えていることを伝えるとき、思いを整理するために言葉にするとき、その言葉がイメージにあっているかを考えてしまう。
そして、そこを納得いくまで掘り下げようとすると話が進まずに、だんだん苦しくなってくる。

本当は相手にとって受け取りやすいメッセージを渡したいし、自分のありのままを文章として残しておきたい。
それはこのnoteに綴る文章においても当てはまるのだが、今はそのストレスから逃げてしまいたいので、思ったことを何のフィルターも通さずに続けていく。


今日の朝も4時間ぐらい布団の中でグダグダしていた。
意識というか自制心がなかった。
ようやく11時になってスマホの充電が切れ、動くことを意識することが出来て、とりあえず散歩に行こうと布団から出た。
スマホはやはり自分の手には余るかもしれない。

ごはんと洗濯の用意をして、鞄に本とノートをつめてから家を出る。
近くの川沿いにあるベンチに行き、李琴峰さんのエッセイを取り出した。
本に置かれている文字は意識に入ってくるも、自分の中に掴まるところを見つけられないでただただ吹き飛ばされていく。
その時間帯は風が強く、乾いた枯れ葉が足元に飛んできて、それからまた飛ばされていった。

読むタイミングと自分と本は残念ながら嚙み合わなかった。
でも、丁寧に組み立てられた意味を受け止めようとする心地よさは感じられた。
そう思うと、さっきまでのスマホに時間をむしり取られている状態は、何の甲斐もないなと寂しい目をした。

現実を感じる時間、虚構や論理を育む時間、その現実と虚構を上手く重ねて次の行動を考える時間が必要だと思う。
本とか物語を読むというのはその虚構にあたる部分で、今はそこが不足していると思う。
youtubeとか意味をなさない点の時間は減らすか、線にするか、ということをしていきたい。


意味や目的に関して、最近考えている。
私の行動のモチベーションは、行動になにかの意味があることを信じることだったのではと指摘を受けた。
最近物事の意味をおろそかにしている。
意味がなくてもいいのでは、理不尽なことを受け入れられるようになるべきではと、考えるようになっている。

そのような考え方を持って暮らしていて、いくつかの問題点に悩まされている。
一つはまず考えるということが苦手になり始めていること。
一つは行動できなくなっていること。
今を変えようとするエネルギーが見つからなくなっている。
本当に、どうしようもなくなりそうだということを踏まえて、恐怖も感じられずにいる。

先程の散歩から帰ったのが13時。
それからシャワーを浴び、食事をとり、休憩をして、図書館に行こうと思い立った。
図書館にいると、私の全ての行動がまともであるかのように思える。
気分の錯覚だとは思うけど、そういう場所があってよかった。

それで、家を出た。
自転車を押して歩いていく。
自転車をもっていくのは移動手段自体としてではなく、移動手段に選択肢を与えるためだ。

すると、気分が悪くなった。
歩くスピードが速すぎて、目に入ってくる印象が溢れかえってしまったみたいなことだ。
2か月前まではそんなことはなかった。
意味を読み取ることを放棄してから、目に入ってくる印象がすべて等価になり、それを丸々受け止めようとしてしまっている。
鬱々とした苦しさとかでなく、混乱に近い。


メモに書きだして頭の中を整理する。
若干は楽になったけど、自転車にでも乗ろうものならと嫌な想像をする。
こういうときに、誰かと一緒にいたら楽なのだ。
意識の向きを一身に引き受けてくれる誰かがいたら、周りの印象に混乱させられることはないのに。
ただ、じゃあその誰かに声をかけるかというのは別に問題としてあるわけでもある。

坂を上りながら、ボイスメモを起動する。
自分の考えを口に出すことは、やはり考えや気分の整理につながる。
そうしていて思い至ったのは、今の私はアウトプットとインプットが絶望的に下手だということだ。

インプットをするときには大事な情報を見分けられずに、印象を受け取りすぎて溺れている。
アウトプットでは上手く言葉を選ぶことが出来ずに、絶えず違和感に苦しんでいる。
本当にそこがネックになっている。

もっと本を読みたい。ドラマやアニメでもいい。映画でもいい。
シミュレーションというか、想像力を支えてくれるものをもっと自分の中に取り入れたい。
頑張れ。



本当に独りよがりな文章ですみません。

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