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無力を受け入れてしまう私が悔しい

私が空き時間にしていることは「考える」であると思い込んでいたのだが、そうではなく連想ゲームに過ぎなかった、という内容のnoteを書いた。

最近の連想ゲームのテーマは無力とか、祈りとかになっている。
ポジティブネガティブを問わず、私が無力であるということを感じる機会が増えていて、その感覚を価値観に組み込もうとしているのかもしれない。


しかし、この考えはネガティブな方向に行くことが多い。
逆説的な展開を見せることもあるが、大体は「悲しいね」と自分を慰める結論に至る。

他の人は、私がいなくても楽しくしているように見える。
それは私目線だからかもしれないが、とにかく他の人の楽しさに私が寄与できる所は少ないと思ってしまう。
たまたま私の行動がその人の楽しさにつながることはあっても、あくまでその要因は本人が持つ「楽しくなろうとする意志」だと思う。

では私はどうかと言えば、私の楽しさは意志よりも気分に大きく支配されるように思う。
雨が降っていて傘を忘れたのにスキップをする日もあれば、天気も良く好きな人と話が出来たのに苦しさを感じる日もある。
最近は自分で「私に楽しく暮らしてもらいたい」と祈るのだが、そのようなイメージは全く持てない。
だから、私は私の楽しいという感情に対して無力である。

そういうわけで、私の行動が誰かの楽しさに寄与するイメージを持つことが出来ない。
ただ出来るのは「良い」と思うことにしたがって、それによって誰かが幸せな気持ちを感じてくれたらいいなと祈りを重ねることだけ。
無力な私に分相応だと受け入れるときもあるが、それしかできないと否認したい気持ちに駆られることもあって、それがまた気分を不安定にさせる。


何より悔しいのは、私が何かの行動を起こすモチベーションが低下していることだ。
変化や、努力や、行動を肯定する作品から沢山の素晴らしいメッセージを受け取ってきた自負はあるのに、それらを否定して現状の苦しさを理由に甘んじている自分が情けない。

私の周りにいてくれる人たちと一緒に楽しめる自信はなくて、でも楽しさを感じたくて、どちらが私の取るべき行動なのか理性と感性の私がすれ違い続けている。


叶うならば、私が純粋な楽しさに浸れるようなものが見つかりますように。
そしてそれに浸っていることで誰も不快にならず、あわよくば他の人も明るい気持ちになるような何かが存在しますように。

それは私自身が作っていくんだよ。と呼びかける心の声もあるが、私の行動には届かない。
悔しい。

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