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アルフレッド巡礼記 5日目その2: ウィンチェスター大聖堂(2)

アルフレッド大王聖地巡礼記、5日目、その2
5日目はウィンチェスター大聖堂の続きと、周辺史跡、およびアルフレッド王に縁のありそうな場所を散策します。(ウルヴジー城址、シティ・ミル、ハイド・アビー、グレート・ホール、ウィンチェスター城址、等々)

まずはウィンチェスター大聖堂の続き

<<(前回はこちら)


◆本篇

>>各ページの補足はこちら

p5-11.

>>P. 5-11の補足へ→

p5-12.

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p5-13.

>>P. 5-13の補足へ→

p5-14.

>P. 5-14の補足へ→

p5-15.

>P. 5-15の補足へ→

短いですが今回はここまで。
次回はウルヴジー城址、シティミルなどの予定。
(大聖堂にはまた少し戻ってきます)

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◆各ページの補足/リンク

各ページの補足というか蛇足というか。

[P. 5-11の補足]

◆聖スウィザン (St Swithun/ Swithin)とは:

ウィンチェスター司教。797~800年頃生誕。
852年にアルフレッド王の父、エセルウルフ王がウィンチェスター司教に任命。862年(861~863年頃)7月2日に死去
生前の功績は不明だが、10世紀ウィンチェスター大聖堂の守護聖人として祀られ、イングランド南部を中心に信仰された他、アイルランド、フランス、北欧などにも広まった。
♰シンボル:雨粒、リンゴ
♰アトリビュート(持物):割れた卵、橋、司教の姿
♰聖人祝日:7月15日

※スウィザンについて調べていたら無駄に長くなったので、別記事にしました>こちらも参照ください

聖スウィザンのイコン。
旧スウィザン廟の前にある9枚(イエスと諸聖人)のイコンのひとつ。
(1992年に描かれたもの。Sergei Feyderov画)
イコン全体図。右端がスウィザン。
後ろの高い壁が、「グレート・スクリーン」の裏面。
このイコンの後ろの空間がスウィザン廟だった
(いずれも2018年撮影)
旧スウィザン廟への入り口「Holy Hole」。
上記のイコンが並んでいる壁(仕切り)の中央下部にあります。
現在は手前にKneelerなどが設置され、穴はくぐれませんが、
中には「feretory platform」(聖遺物用の台)の一部が現存するらしい
旧スウィザン廟の中がチラっと見えた様子。(2011年)
左の壁がGreat Screenの裏側。
中はバックヤードになっているっぽい?


▶聖スウィザン橋:

ウィンチェスターの東を通るイッチェン川 (River Itchen) にかかる「聖スウィザン橋 (St Swithun's Bridge)」は、もともとウィンチェスター市街地(9世紀当時)の東門にあった橋を、スウィザンが初めて石の橋にしたので、その名前がついたようです。
(後述の「卵の奇蹟」が起きたのがこの橋の上だったから、という説も。)

なお、「スウィザン橋」の石造化に加えて、教会の建築・修繕にも熱心だったという言い伝えから、「大工/建築」の守護聖人とされることもあるようです。

St Swithun's Bridge, Winchester. Photo by Alf Pilgrim
St Swithun's Bridge (左), 2011年撮影。
現在の橋はヴィクトリア時代のもの。

▶「聖スウィザン橋と雨」の言い伝え:

スウィザンの死後、その遺骸は当時の教会「オールド・ミンスター」(※現在の大聖堂の北に位置)の入り口の前(屋外)に埋葬されていましたが、
約100年後に列聖キャンペーンが盛り上がり、
971年7月15日、リノベーション後のオールド・ミンスター内(屋内)の祭壇あたりに改葬されました。

この改葬日=7月15日聖人祝日になったのですが、改葬の際に大嵐になって雨が何日も降り続いたため、
7月15日(スウィザンの日)に聖スウィザン橋に雨が降ると、その後40日間、雨が降り続く」という言い伝えが生まれたとか。
英語原文は下記(諸説/複数バージョンあり);

St. Swithun's day if thou dost rain
For forty days it will remain
St. Swithun's day if thou be fair
For forty days 'twill rain nae mare

出典:https://en.wikipedia.org/wiki/Swithun

後のページ(P. 5-15)に出てくるジェーン・オースティンも、亡くなる3日前の7月15日(スウィザンの日)に、聖スウィザンと雨に因んだ詩を書いています。

イッチェン川にかかるスウィザン橋(右奥)を、川沿いの遊歩道から臨む。
なお遊歩道の一部にローマ時代の壁が残っている

また、スウィザンの日に雨が降ると豊作になるという言い伝えもあり、聖人シンボルとして「雨粒」と「リンゴ」が描かれることも多いようです。

1100年忌に作られたメモリアル聖廟(1962年)にも、リンゴが描かれている


▶スウィザンと割れた卵の奇蹟:

スウィザンのアトリビュート(持物)のひとつ「割れた卵」は、スウィザンの代表的な奇蹟である「割れた卵を元に戻した奇蹟」を表しています。
これは、

街の老婆が市場に向かう途中、橋の上で転んで卵を落として割ってしまったが、通りかかったスウィザンが割れた卵を元に戻した

というもの。
(※老婆が「貧しい」女性だったり、場所がスウィザン橋の石橋への改修工事現場だったり、卵を落とした原因がスウィザンと会って驚いた/石橋の建材につまづいた/石工とぶつかった等、色々なバージョンあり。)

実際に起きた出来事かどうかも不明で、あったとしてもスウィザンが卵を弁償してあげた程度の話かもですが、生前のスウィザンが関わっている唯一の「奇蹟」であり、象徴する逸話となっています。

なお、これ以外の「奇蹟」は基本的に死後のもので、夢に出てきてあれこれ言ったとか、墓に触れたら病気が治った等、色々とあり、
特に、スウィザン列聖キャンペーンの立役者で、971年のスウィザンの改葬を行なったウィンチェスター司教エセルウォルド (Æthelwold) が、連日、昼夜を問わず熱心に奇蹟を「発見」
奇蹟が起きる度に他の修道僧達に全員集合をかけるので、生活や業務に支障をきたした(聖人伝筆者のひとり Wulfstan the Cantor談)…などという余談もあります。

▶アルフレッド王子のローマ巡礼とスウィザン:

アルフレッド王幼少期の853年と855年の2回、ローマ巡礼しており、2回目はエセルウルフ父王の巡礼に同行という形(前回参照)でしたが、1回目は単独

と言っても勿論 1人で行くわけではなく、家臣や聖職者、「貴族や平民」(アッサー談)を含む大人達で構成されたローマ巡礼パックツアー団に、王家のアルフレッド王子が参加した感じです。

そしてこの1回目の巡礼に、スウィザンが同行した…という逸話が、聖スウィザン-アポン-キングスゲート教会のパンフレットに書かれており、元ネタは数世紀あとの歴史書(例: Thomas Rudborne "Historia Maior ecclesiae Wintoniensis" 15世紀)などに見られます。

この話の信憑性はというと、853年/855年当時はウィンチェスター司教だったので、可能性は無きにしも非ずですが、現存する当時の資料には残っていないので、歴史学的には、あくまで後年(約100年後~)の聖人化に伴って生まれた箔付け/伝説という位置づけのようです。

▶スウィザンの墓の変遷【参考】:

スウィザンの墓は、前述の通り、最初はオールド・ミンスターの正面入り口の前の屋外にあったのが、971年にオールド・ミンスター内の祭壇 (high altar) のあたり?に改葬されました。

974年頃の10月22日には、遺物の一部を、最初の墓の上に建てた聖廟の中の豪華な聖遺物箱(エドガー王提供)に分祀。(残りはミンスター内の祭壇にキープ。)

ノルマン時代になり、ノルマン様の威容を示すために現在のウィンチェスター大聖堂(初期形態)が建てられましたが、
1093年4月の正式オープン後、同年1093年7月15日に、アングロ・サクソンの聖人スウィザンもノルマン式大聖堂の中に改葬
(同年、サクソン時代のオールド・ミンスターは取り壊されました。)
この時に祭壇(high alter)のすぐ後ろ~「旧」スウィザン廟のあたりに祀られていたようです。

その後、13世紀頃(?)に「Holy Hole」アトラクションを作ってみたり、奥内陣を増築したりしつつ、
1476年のレイアウト変更で、スウィザン廟も奥内陣中央(「新しい」スウィザン廟の位置)に移動

最後は1538年9月21日午前3時、トマス・クロムウェル(の部下達)によって解体され、スウィザン信仰の終焉を迎えました。

なお、この聖廟解体時の様子が、クロムウェルの秘書 Thomas Wriothesley の手紙に残っており、その説明パネルがありましたが、「聖廟」の中には大したものは入っていなかったようです。

解体前のスウィザン廟の想像図。
特に身体障碍者への功徳が多かったらしく、すがりついて祈っている姿などが見える。

現在の聖廟(跡)はいずれも、ヴィクトリア時代~現代に修復した後の姿のようです。

1476~1538年の新スウィザン廟の位置。
1100年忌の1962年に設置されたメモリアル・モニュメントが在る。


[P. 5-12の補足]

◆レディ・チャペルのステンドグラス:

大聖堂の東端(1番奥)には正確には3つのチャペルが並んでおり、真ん中が「レディ・チャペル/ Lady Chapel」。

その中にある「東窓 /East Window」が、ヴィクトリア女王のダイアモンド・ジュビリー記念のステンドグラス (1898年)で、
ここにアルフレッド王が描かれています。(!!!)

東窓のステンドグラス自体は(西窓と同様に)ヴィクトリア時代より前から存在しており、イングランド内戦などで破損したりしたようですが、残っていた部分がこのヴィクトリア女王デザインに再利用されているそうです。

東窓 (East Window) のステンドグラス。
下段、左から3列目にアルフレッド王
撮影のため暗く撮ってますが、実際はもっと周囲が明るいです。
アルフレッド王、拡大図(下段中央)。
前でひざまずいている司教っぽい人は、紋章から見てウィリアム・オブ・ウィッカム(ウィンチェスター・カレッジの創設者)かも。
ウィッカムが大聖堂の身廊をゴシック様式にリニューアルしたらしい


◆クリプト(地下聖堂):

祭壇(High Alter)の地下に位置するクリプト(地下聖堂)は、ロマネスク様式のヴォールト (Vault) で大聖堂の建設当初の姿を残しています。

通常は手前に柵があって眺めるだけですが、ボランティアによるクリプト・ツアーでは、奥にも行けるようで、井戸や聖スウィザンの像(16?世紀頃まで教会の入り口あたりに飾ってあったもの)があるらしい。

クリプト内を手前から見たところ。(2018年撮影)
中央の像は “Sound II" by Antony Gormley, 1986
(2018年撮影)

[P. 5-13の補足]

◆「エピファニー・チャペル」のエドワード・バーン-ジョーンズのステンドグラス:

バーン・ジョーンズの既存のイラストを元に作成したもの。エピファニー(キリストの公現)にまつわる4枚。

受胎告知の場面
エリザベト訪問の場面
キリスト降誕の場面
3人の賢者が聖母子を礼拝する場面

[P. 5-14の補足]

▶南翼廊(South Transept) :

サウス・トランセプトには、正確には「中二階 (mezzanine)」と屋根裏「トリフォリウム (Triforium)」の2階層があり、
おそらく中二階に(?)「モーリー・ライブラリー (Morley Library)」、トリフォリウムに「ギャラリー(展示室)」、という構成だったようです。
(記憶にないですが…)

トリフォリウム・ギャラリー (Triforium gallery)」には、色々と展示されていたらしく、クヌート王の心臓を入れていた(かも知れない)10世紀後半のガラス器「シャフツベリ・ボウル (Shaftesbury Bowl)」や、昔の装飾/彫像などがあったらしいです。(記憶に無いですが…)

なお「ギャラリー」は、現在は2019年にオープンした常設展「Kings & Scribes」に入れ替わっているようです。

<余談>2011年か2018年の巡礼の際に、「Kings & Scribes」の予告看板が立っていた気がしますが、「王と書記」という組み合わせが個人的にあまりにも響きすぎて、写真を撮ることもできずキョドってしまっていました…。(あまり記憶に無いですが…)
※自分のアルフレッド王信仰のバイブル「アルフレッド王の戦い」は、アルフレッド王の書記となる少年が主人公なので…。


モーリー・ライブラリー (Morley Library)」は『中世から現代までの幅広い印刷物や手稿』が収納されており、特に、身廊の垂れ幕(p.5-3参照)に使用されていた「ウィンチェスター・バイブル」が有名らしいですが、2011年の訪問時は記憶も知識もなく、9世紀のものではないので、完全にスルーしてました…。(見るものが多すぎたので、「9世紀」にのみ反応していたため…)

これは第2回巡礼時に南翼廊が工事中だった様子(2018年撮影)
2018年の南翼廊の工事中は、北翼廊に展示室(右下の白い小屋)が作られ、中にウィンチェスター・バイブルが展示されていました。
(写真は扉が閉まっていますが、展示時間中は開いてました)

▼現在の南翼廊の常設展「Kings & Scribes: The Birth of a Nation」のプロモ動画


▶参考:シャフツベリ・ボウル (Shaftesbury Bowl):

サクソン時代(9~10世紀頃)のガラス器。
シャフツベリ修道院 (Shaftesbury Abbey) の祭壇の前の『白いハート形の石の下から』(恐らく1862年頃か、1902~1904年頃の調査の際に)発掘されたもの。
1951年にシャフツベリ伯夫人からウィンチェスター大聖堂に寄贈されました。
参考)Wikipediaからお借りした写真;

Shaftesbury Bowl, photo taken by Ealdgyth, via Wikimedia Commons
Photo by Ealdgyth via Wikimedia Commons, CC BY-SA 3.0

用途は全く不明ですが、クヌート王は1035年にシャフツベリで亡くなったので、祭壇の下にあるような重要な器には、クヌートの心臓でも入っていたのでは、という推測がされたようです。
ただし根拠はなく、「ハート形の石」も行方不明。
参考元: https://www.winchester-cathedral.org.uk/blog/shaftesbury-bowl/

<追記>一方、シャフツベリ修道院のウェブサイトのギャラリー(2023年アクセス、)には、このボウルに入っていたかも知れないのはエドワード殉教王(978年没)の心臓、という解説文も。
どちらなのか謎です。

【参考】エドワード殉教王についてチラっと書いた過去ページ(2日目3/3、P.2-19)

2~3コマ目にエドワード殉教王

なお、シャフツベリ修道院は、888年頃にアルフレッド王が創設した女子修道院で、王の次女のエセルジヴ (Æthelgifu) が初代修道院長。
この修道院も16世紀に解散させられ、現在は遺構を展示する博物館になっています。

シャフツベリ修道院の遺構(生垣の手前の芝生部分)。
奥側の十字架を立ててあるあたりが祭壇 (High Alter) のようです。
2018年撮影。
祭壇のあたり。このへんにボウルがあったのかも。
十字架などは発掘後に建てたモニュメントじゃないかと思います



▶トゥルネー・フォント (Tournai Font):

ベルギーのトゥルネーで12~13世紀頃に作られていた洗礼盤 (font)。
トゥルネー産の黒大理石に、特徴的なスタイルで彫刻を施してあります。
イギリス国内には完全なものは7台あり、そのひとつがこのウィンチェスター大聖堂の、聖ニコラウス伝説を描いたもの。
他の現存する洗礼盤をみると、デザインは使い回しされていたようです。
参考: https://en.wikipedia.org/wiki/Tournai_font

なお、トゥルネーの黒大理石は、教会の床や地面に埋められているタイプの墓石 (ledger stone) にもよく使われていたようです。

聖ニコラウスが肉屋に殺された3人の子供達を生き返らせる場面(2018年撮影)。
※右端の船は、別の逸話を描いたもので、これも「子供の守護聖人」関連。


▶アルノー・ド・ギャバストンのエフィジー:

Arnaud de Gabaston は現在のフランスのガスコーニュ(当時はイングランド領)の貴族(?)で、裁判官などを務めたようです。
息子のピアーズ・ギャヴィストン (Piars Gaveston) の方が有名で、初代コーンウォール伯となり、エドワード2世の良からぬ寵臣として、エリザベス期の劇作家クリストファー・マーロウの戯曲「エドワード2世」(1594) にも描かれているらしい(観た事ありませんが…)。


[P. 5-15の補足]

◆ジェーン・オースティンの墓:

オースティンは病気治療のためウィンチェスターに滞在し、キングスゲート近くの家で過ごしていましたが、1817年7月18日に亡くなり、7月24日にウィンチェスター大聖堂に埋葬されました。

大聖堂を入ると受付があり、そのすぐ先の床にお墓があります。
また、墓石の横の壁に、1870年に設置された真鍮のメモリアル銘板と、1900年に作られたメモリアル・ウィンドウ(ステンドグラス)もあります。

墓碑銘(下記)は兄ヘンリーによるものですが、執筆作品には触れておらず、また、「牧師であったジョージ・オースティンの末娘であり…」と強調されているあたりに、大聖堂に埋葬されるための背景が垣間見える気がします。(当時の女性の墓碑銘の習慣なのかもですが。)

ジェーン・オースティンの墓。墓碑銘「In Memory of Jane Austen, youngest daughter of the ate Rev. George Austen, formely Rector of Steventon in this County, the departed
ジェーン・オースティンの墓石

”In Memory of JANE AUSTEN, youngest daughter of the late Rev'd GEORGE AUSTEN, formerly Rector of Steventon in this County/ she departed this Life on the 18th of July 1817, aged 41, after a long illness supported with the patience and the hopes of a Christian.
The benevolence of her heart, the sweetness of her temper, and the extraordinary endowments of her mind obtained the regard of all who knew her, and the warmest love of her intimate connections.
Their grief is in proportion to their affection they know their loss to be irreparable, but in their deepest affection they are consoled by a firm though humble hope that her charity, devotion, faith and purity have rendered her foul acceptable in the fight of her REDEEMER."

(墓碑銘書き下し)

一方、1870年にご家族が設置したメモリアル銘板は、甥のジェームズ・エドワードによる文章で、「その執筆作品で多くの人々に知られ…」とあり、最後に書き添えられた「箴言」31:26 の引用文と合わせて、作品がよく知られるようになった感じです。

ジェーン・オースティンのメモリアル銘板(2018年撮影)

Jane Austen
known to many by her writings endeared to her family by the varied charms of her Character, and ennobled by Christian Faith and Piety, was born at Steventon in the country of Hants Dec xvi mdxxlxxv and buried in this Cathedral July xxiv mdcccxvii
"She openeth her mouth with wisdom and in her tongue is the law of kindness"
Prov・xxi・xxxi・v・xxvi

(メモリアル銘板書き下し)

前述した、オースティンが死の直前の7月15日(スウィザンの日)に書いた(口述して姉のカサンドラが筆記した)詩/韻文はこちら
※書き下しテキスト ("full transcript") の最後に「Ventra」とあるのは「Venta」(Venta Belgarum、ローマ時代のウィンチェスター)の間違い。


◆その他の写真(ジャンヌ・ダルク像)


レディー・チャペルの入り口のあたりにあったジャンヌ・ダルク像
1922~23年頃設置。

ジャンル・ダルク像。台座に ”Sancta Joanna de Arc"。

無知なので今回この記事を書くまで「何故こんなところに??」と思っていましたが、
ジャンヌの異端審問に、当時のウィンチェスター司教ヘンリー・ボーフォート(枢機卿, Henry Beaufort)が関わっていたからのようです。
この彫像の台座にはジャンヌが投獄されていたルーアンの牢獄の石が入っているとか。
なおレディーチャペルの手前には、その枢機卿ボーフォートの墓もあり、納得のレイアウトというか、なかなかえぐい対比。
参考記事:Hampshire Chronicle

▼ヘンリー・ボーフォートの墓。左側のチャントリー・チャペル(寄進された礼拝堂)がそれ。ジャンル・ダルク像はこの写真の手前右に位置。

左側のゴテゴテした部分がボーフォートの墓。


次回はウルヴジー城やシティ・ミルを進めていきたいです。

もしお気に召しましたらチャリ銭などいただけますと、諸作業が捗ります!