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◆上海ナイト◆

薄暗い、雑居ビルの階段を数階上がったところに、
彼の部屋はあった。
窓からは、上海の夜景が赤黒い錆のような膜を帯びて連なり、
行き交う車のライトが、やけに眩しかった。

私たちは並んでソファに座り、
彼が入れてくれたコーヒーを飲みながら、
互いのことをいろいろと話した。

私も彼も、どうやら恋を失ったばかりのようだった。

飾られた写真立てに、笑顔の彼女。
伏し目がちに語る彼の、低い声。

暫く話を続けた後、
彼は急に黙ったかと思うとそのまま立ち上がり、
数歩進んで仰向けにベッドへと倒れ込んだ。

私は、黙ってそれを眺めていた。

そして、少し時間を置いて彼の跡を辿り、
同じように、ベッドへと倒れ込んだ。

寄り添うように。傍らに。

今、思い返してみても
何が夜を助長させたのか、定かではない。
寂しさか、甘えか。
それとも、若さゆえの狡猾か。
言えるのは、ただ

言葉ではもう、難しかった。

ということ。

壁を隔てた隣の部屋には、友人たちがまだ起きていて、
遠くのほうで賑やかな笑い声が聞こえている。
部屋に立ち込める、ひんやりとした空気と湿度。
軋むベッドの音に声をかみ殺しながら、
私は、彼しか見えていなかった。

翌朝、肌寒さで目が覚めた。

二人とも裸のまま、眠ってしまったようだった。

私は隣で寝息を立てる彼に、
飼い犬が愛しくすり寄るようにそっと頬を寄せ、窓へと目をやった。
真っ白な朝もやが、町全体を包んでいた。
光が少しずつ大きく円を描いて広がり、
仄かなグレーの中に、ちらほら色が見え始めた。

目が離せずに数十分が過ぎ、
そろそろ起きよう、と体を起こしかけた時だ。
背中側から急に腕が伸び、私は後ろからぎゅっと抱きすくめられた。
あたたかな体温が、背中を通って全身へと伝わった。

瞬間、うなじの辺りに唇をつけ、
吐息混じりに彼が言った。

「ずっとここにいてよ。」

叶わない、戯言。
本気であるはずがない、絵空事。

刹那的な感傷の渦の中、
信じられようもないその言葉に
されども、彼の想いを見た自分がいた。

私は、背中から胸元に回された彼の手を
自分の両手で包み込んだ。
そして、ひとしきり肌の感触を感じては、
思いっきり彼の手の甲をつねって、応えた。

彼は声を荒らげ、はたまた笑って、再び私を抱き寄せた。
私は振り向いて、彼と顔を見合わせ、さらに一緒に大笑いした。

以来、彼とは一度も会っていない。

何処で何をしているのか。
あれからまた違う愛しい人と巡り逢えたのか。

例えこの先、偶然再会するようなことがあっても、
きっと、あの夜のような触れ合いにはならない。
幼く、軽はずみで、無鉄砲。
到底、"恋"などとは呼べるわけもない、
しかしながら、
何と名付ければいいのかわからないあの日の感情は、
今も、鮮やかさを増して、私の記憶の片隅を占拠する。

記憶が天然色であるならば、
どんなに痛みや悲しみを伴うものであっても、
それは幸せな記憶なのだと思う。

◆◆◆◆◆◆◆

私の"千一夜物語" 第一話。

時は、大学3回生 中国留学中の冬。
舞台は、上海。

インターネットを通じて知り合った
上海に住む同じ日本人留学生の元を訪ね、
その先で出逢った青年との、一夜の、お話。

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