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親切の先を考えよう

たった一度でも、一瞬でも喜びを感じると、もう一度欲するのは人間の本能なのかもしれない。その喜びを得るための自分の肉体的、精神的な労力が少ないものは依存性も隠れているのかもしれない。

昨日隣の家の子供がうちの一階部分の小さはスペースで遊んでいた。仕事終わりにいつものように夕食と次の日の朝食を市場に調達に行きました。家に帰ると遊んでいる子供が目に入りました。買い物バックの中には1キロのバナナと油が入っています。僕の生活するこの村では野菜もフルーツも日本に比べると安価で購入することができます。日本人目線では安価かもしれませんが現地人の生活水準と比較すると決して全ての食材が安価で購入可能な訳ではありません。

一人暮らしあるあるかもしれませんが食材が少し余ってしまう問題。バナナも1キロで買っても全然余裕で美味しく食べれる期間内に完食することもできますが、他人にあげる余裕もあります。

そこでバナナを遊んでいる子ども二人に一本ずつ計二本あげました。その後お風呂の準備をするためにお湯を沸かす作業や仕事道具の整理をしていると下から先ほどの二人組の子どもの声が聞こえてきました。きっと言っていたことはもっと頂戴とお菓子、飴を頂戴と言っていたんだと思います。この光景は慣れました。そして何度も繰り返す自分の心理を考えてみました。

ものをあげると言う行為は善の要因が強いとしか考えていなかったのです。ものをあげる行為を第一行為とすると、ものをもらった人の起こす第一行為は感謝を追い越してもう一度、もう一つください。と言う気持ちとそれに対する行動です。感謝は強制するものではありませんが、少しでもその気持ちを感じたい自分がいるのも事実です。

それを踏まえて僕の起こす第二行為は「さっきあげたからもうないよ。」と伝えることです。この村に来てから何度もこれを繰り返す日々です。
親切の行為の先を考える必要があるのかもしれません。きっと何も考えない親切は自己満足の延長線なのです。自己満足を否定している訳ではありません。世の中自己満足で成り立っている要素も少なからず存在しています。

考え過ぎているのかもしれません。
当たり前も、普段考えようとしなかった行為を考え直すことが2年間のテーマなのでやめることはできません。

さあ今日からもこの行為を繰り返していくことでしょう。でも昨日までとは違うのは自分の親切の先に何が待っているのかを考えて、その行為に責任を持っていることです。答えが見つからない行為もいろんな角度から見ると違った考え方や新しい視点が増えるので楽しいです。

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