片親になった人へ、片親の子より
起きたら母はもう家を出ていた。
眩しいくらい快晴の朝。いや、曇りだったのかもしれない。
父はダイニングテーブルに座って、シリアルを食べてる。私も向かいの席に座って、虹色のしたシリアルをお椀に注いで、牛乳をかけて食べた。
一人かけてしまったリビングは、とてつもなく広い。そうやって、母がもうこの家にはいないことを認識した。
両親が離婚したのは7歳のとき。
父に引き取られたのは、父がまだアメリカに残るという理由で、私が父を選んだから。逆だったら、母の方に引き取られていただろう。
7歳は、単純だ。
そうやって、母は私がまだ寝ている明け方に、空港へ旅立った。
さよならは寝る前にしたはずだったが、感覚はおやすみと言っているような感覚だった。母が私ともう住まないという感覚とは、ほど遠いものだった。
父との二人生活はそうやって始まった。
父は料理もでき、家事全般ができたので、そういうことには困らなかった。新しい仕事も日本で転職し、二人暮らしで金も浮いたため、一般の家庭では体験できないような自由にも恵まれた。
父との二人暮らしをした約10年間は、幸せだった。
だけど、そんな幸せの中で一つだけ、どうしても拭えないものがある。
私は学校から家に帰ってくると、一人だった。
登下校も一人。学校では友達があまりできなかった。
一人っ子で二人暮らしだと、一人の方が楽で好きになっていたので、そこまで困りはしていなかった。
でも、一人だと、考えることが多くなる。
その考えている中で常に思っていたのは、『父がこのまま帰って来なかったらどうしよう』だった。
両親が離婚してからは、自立心が強く芽生えた。
いつ、親が突然いなくなるかなんてわからない。翌朝起きたら、いなくなっているかもしれない。
なので、その時はどうしようか常に考えていた。
食料はどうするか
誰に連絡するか
学校へは行くのか
事情は聞かれたらどう説明すれば良いのか
水道代、ガス代、電気代はどうするか
私は常に、一人残されたときにどうやって生活するかを考えていた。
結局、その日は来なかったが、私の中で根深くその感覚は残されている。
よく覚えているのは、父が飲み会へ行ったとき。
もう留守番に慣れて料理もできていた私は、父に飲み会へ行かせていた。
大丈夫だ、と言い聞かせ、父を見送った。
テレビを見て、ご飯も食べて、ゲームをして。好きなことをして過ごした。
だが、寝る時間になると、寝れなかった。
朝起きたとき、父がいなかったどうしよう、と。
そうやって、布団の中で計画を繰り返し考え、玄関の開く音を聞いてから寝ていた。
こんな不安を子に持たせるなど、父のことを親失格だと思う人もいるだろう。
だが、それは間違いだ。
父は必ず帰ってきて、毎日私に愛していることを伝えてくれていた。
夜遅くに帰ることになったら必ず連絡してくれ、飲み会の帰りにはお土産を必ず買ってきてくれていた。
どんなに忙しくても、私の学校行事・授業参観に参加し、母親たちしかいない中で、父は授業を受けている私に満面の笑みで手を振っていた。
祝日や週末には、疲れているはずなのに必ず一緒にどこかへ出かけてくれた。
学校初日には、他の子達からからかわれないよう、手縫いで雑巾を塗ってくれたこともある。
一人手で私を育ててくれた父は、私から見て見れば、この世で後にも先にもない、史上最高の父親だ。
だから、これは知ってほしい。
この持っている不安は決して父のせいではない。離婚も父のせいではない。
ただ、離婚で生まれてしまったトラウマだ。PTSDだ。
最高の決断の末の、できてしまったもの。
離婚など、子の受け入れ方は十人十色。避けようがない。
なので、子をもつ離婚をされた親御さんに知ってほしい。
離婚の決定的な原因を作っていない限り(不倫など)、その子の苦しみは決してあなたのせいではない。
避けようがないもの。だから自分をなるべく責めないでほしい。
どうしても責めてしまうのなら、かわりに子に愛情をできる限り注いでほしい。子が愛されているってわかるくらい、愛情を出してほしい。
その子は、突然起きた天変地異のような出来事から自分を支えるのにはあなたが必要です。どうぞ、その子の柱になってください。
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