見出し画像

昔いじめられていた時のこと。

その昔、いじめられていた。

あれは中学1年の時。

私の中学では新入生は全員坊主にするという悪習があった。
昔から納得できないことはやらない性質なので、坊主にはしなかった。

そもそも坊主にしたくないからという理由で小学校からやっていた野球を辞めて別な部活に入ろうと思っているのだから、当たり前の選択だ。

その結果、早速3年生からいじめられることとなった。


必要があって話しかけたりしても無視されたり、廊下でわざとぶつかられたり、聞こえるような陰口を言われたりという程度のものだ。

世の中で蔓延る暴力と比べたら軽いものだ。
とはいえ、実際にやられると不便だし、不愉快極まりないのは言うまでもない。

冷静にその時どんなことを思っていたか、思い出してみると……

「はぁ?めんどくさ。腹立つな。」
「お互いにマイナスしかないのにそんなことなんでするのかな?」
「悪意に労力を割ける人ってすごいな。」

とか思っていたような気がする。

とはいえ心に余裕がなくなると、人間そんな簡単に自分に向けられた悪意を受け流すことができなくなるので、しんどい日もあった。


それでも何とか1年間耐え、彼等の卒業をもっていじめは終了した。
では、なぜ自分が耐えられたのか考えてみたい。

思い返すと私の両親は私が小さい頃から地元に残らないという前提で接していたと思う。

私は一人っ子なのだが父は、

「うちには継ぐ家業もないし、家は建物があるだけだから気にしなくていい」
「お前が活躍する場所はこの町ではないが、東京に行っても時々地元のことを思い出してほしい」

と、よく言われていた。


そう言われていた私はいじめていた人に対して

「どうせ私をいじめている人とは今後関わることはないから、そんなしょうもない人は無視しよう。」

と思い、

「私の居場所は今ここにはないけど、きっとどこかにはあるんだな。」

と考えるようになった。


そう思うと相当気が楽になった。

いじめられている人の辛さってここにあるのではないだろうか。

「私の居場所はどこにもない。」
「もう消えてしまった方がいいんじゃないか。」

いじめられていると、こういう考えに陥ってしまうんだと思う。

でも、それは違う。
「どこにもない」んじゃなくて「そこではない」だけなのだ。

学校以外の場所も世界にたくさんあるんだということだけ、知ってほしいし伝えたいなと思う。


あと、私が幸運だったのは私のことを応援してくれる先生がいてくれたことだ。
両親と同じように

「あなたはこんなところにいる人間じゃないんだから、気にしなくていいのよ。そのために勉強しなさい。私が教えるから。」

この人の存在も大きかったと思う。


と、振り返ってみると、両親とこの先生の言葉によって、私のメンタリティは形成され、いじめというバカバカしい悪意をはねのけることができたのだと思う。

今でもそのメンタリティは生きているし、数年前にあったパワハラを耐えられたのも、そのおかげというのが大きい。



このように書いてきたが、もちろん”いじめ”という名の暴力と人権侵害は許すべきではないし、近くにいる第三者は被害者を励ますという行為に加え、根本的な原因の解決に意識を向けてほしいと切に思う。


この記事が参加している募集

振り返りnote

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?