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birthday

 「シャングリア」のバースデーケーキは直径が十五、高さが十、高さ三につき四つずつ、苺と蜜柑が生クリームに塗れていて、スポンジの硬さは家のオットマンの半分くらい、チョコレートプレートは、長さ九のホワイトチョコレートプレートに刻まれているのは、俺の名前と月並みな祝辞、蝋燭の数は十四本、一本につき二年の歳月。

 最後の最後で爪が甘いのは学生の頃から変わらない。まだ月に一度美容院に出かけていたあの頃から皆歳だけ取って何も変わっていない。去年から旦那に料理を振る舞うようになった美春はもう一年が経つというのに飽きても疲れてもいないらしい。その強靭な生活のプログラムを俺だってかつては持っていた。
 琴美と一緒にオーブンで爛れてゆく鳥の足を見つめていた。バタバタとやって来た美春が、両手のミトンはつけっぱなしでオーブンの扉を開けながら、
「やることないならケーキ取りに行ってくれる?」
 一体誰の誕生日なんだか。美春も琴美も笑い転げた。ほうれい線に目がいったけれど、歳を取ったとは感じなかった。
「飾り付けするからゆっくり帰って来てね。」
 琴美が言った。
「手伝ってくれても良いんだよ?」
 と、美春が言えば、二人ともまた笑い転げる。笑っていないのは俺とオーブンの鳥だけだ。

 昨夜、圭吾から連絡がなければ、俺は自分の誕生日を忘れていた。思い出したところでどうなるものでもない。ところが翌朝、つまりは今朝、リビングへ起き抜けのジムビームを飲みに行くと何やらキッチンが騒がしかった。覗いてみると、美春と琴美と慎二の三人が俺の紅茶、俺のフォートナム&メイソンを消費して団欒していた。
「誕生日おめでとう。」
 三人が口々にそう告げる。慎二はスーツ姿だった。
「今日夜パーティーしようと思って。圭吾も呼んでさ。」
 三人とも屈託なかった。俺は呻きとも返事ともつかない声を出してジムビームを取りに行ったけれど、瓶はもう琥珀色をしていなかった。慎二が後ろから肩を抱いてくる。そして目の前に平べったい、四角形の平べったい派手な包装の贈り物が現れる。
「幻想なんたらってやつのレコード。お前欲しがってたろ?」 
「なになに?」
 美春と琴美が駆け寄って来る。
「ベルリオーズの幻想交響曲。」 
 包装紙を開けて、俺はその日初めて笑顔になる。
「うちらもね、用意してるもんね。」
「そうそう。夜になったらあげるよ。」
「夜まで居るの?」
「俺は今から仕事行くけど、こいつらは料理作るんだって。」
「琴美は仕事あるだろ。」
「有給溜まってたから休みにしたの。」
「そう。」
 慎二への挨拶も程々に俺は部屋へと引き上げる。誰もいない空間で、ベルリオーズと話したかったから。

 広寺町、広寺町二丁目の角の和食屋「懐石」を通り過ぎ、城下元町の桜通りをこれで何度歩いただろう。バースデーケーキのドライアイスはもう随分前に遊水路にて溺れさせた。二月に氷は必要ないから。

 そろそろ疲れて、城址公園で休息をとろうと、ようやく俺は桜通りの永遠から抜け出して城下元町を横切った。
 「桜坂」の若女将が店先に暖簾をかけている。彼女は俺をちらと見て会釈した。顔は知っているけれど、俺のことは覚えていない、そんな様子。俺は無視して目を逸らした。数秒後に振り向いたとき、若女将はもう暖簾の奥へと引っ込んでいた。

 城址公園のベンチに座って、向かい側、道路を挟んで向かい側にある巨大な銀行を眺めているうち、無性に襲撃してみたくなった。そして頭の中で計画を練り始め、ふっと気づくと、横断歩道に、横断歩道の向こう岸に盲目の少女が立っていた。少女は押しボタンを押し、車が止まるのを待ったけれど、車は一向に止まる気配を見せない。皆、盲目の少女を見なかったことにして、信号の色にも気がつかないフリ、何をしようというのやら、忙しなく怒って急いでいた。

 見ていられなくて目を逸らすと、足元に小柄な伝書鳩が居た。首元に巻きついた紙を手に取る。しっかりとした線の、達筆な文字、圭吾のものだ。

「後輩がやらかして、面倒な後処理をしなくちゃいけない。少し遅れるけど必ず行くから。プレゼントにはジム・モリソンの詩集を用意してる。楽しみに。誕生日おめでとう。いつまでも変わらないお前が好きだよ。」

 返事を書こうとしたがペンがなくて、気づけば伝書鳩もどこかへ飛んで行ってしまった。不便なことだとため息を吐く。

 俺は膝に乗せたバースデーケーキを開けてみた。自分では絶対に買わない代物だ。代金は美春と琴美が出してくれた。今更になって、今朝の皆への自分の態度が気にかかったが、それが自分という人間だ。今更変われないし、なかったことにはできやしない。

 クラクションの音が響いて、横断歩道、横断歩道の向こう岸に目を向ける。歩行者信号は青、車は止まっているけれど、盲目の少女は渡ろうとしない。そのうちに信号が点滅して、車は再び動き出す。少女はすかさず押しボタンを押す。まるで見えているかのように。
 怖くて渡れないのだろうかと思ったが、すぐにあれが少女の怒りなのだと理解した。歩行者信号は再び青になる。一台無視して通り過ぎたが、次の車は光に従った。少女は渡る素ぶりも見せず、止まってやったドライバーは、苛ついてクラクションを十三度鳴らした。信号が点滅し、車は再び動き出す。少女もまた、押しボタンへと指を伸ばす。
 少女の怒りは正当だったが、その怒りをぶつけるべき人々はもう遥か遠くに消えていて届かない。よしんば届いたとして、少女の怒りは伝わらないだろう。彼らは少女が何に怒っているのかすら分からないのだ。

 嫌なものを見てしまった。一人でいるからだ。俺も、あの子も。隣に誰か居たのなら、互いにこんな感情を抱くこともなかった。俺は立ち上がり家路に着く。ゆっくりと、遠回りをして帰路を行く。皆が待っている俺の居場所に、遠ざかりながらも、一歩一歩。

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