振り返るコト 1

改めてメンがヘラった話をしようと思う。つまるところの生育歴とでもいうか。

他のnoteにもあれこれかいてるからもうお腹一杯だよという方にはむけてない。申し訳ない。


遡ること23年前。私は母上の腹から出た。男を望んだ家庭の長女として。超絶女系家系で男子を望むという無謀な願いを親族一同からかけられたため、男女ともに使える名前を決めていた。特に由来もなくその名前をいただき戸籍抄本に第一子として載せていただいた。

私の父と私の母と父の母(私からみたら祖母)と私という家庭だった。その4年後妹となる第二子を授かる。5人家族。父は転勤族で物心つく頃には単身赴任をしていた。実質4人家族だった。

祖母と母は不仲だった。俗に言う嫁姑問題だ。嫁姑が不仲なのは珍しくはない。度合いはさておいても。女同士の意地の悪さとかネチネチした所とか。黒く淀んだものが確執としてあった。

母は最初専業主婦だった。妹が保育園に入る頃にパートタイマーとして働きだした。もともと専業主婦の頃からそこまで家事が得意ではなかった。それでも料理をつくり、掃除をして家庭を営んでいた。祖母もまだ再雇用制度に近い形で働いていた。

西日本出身の祖母と父。東日本出身の母。料理の味付けが異なるとか、掃除のやり方が気にくわないとか、無駄遣いが多いとか、洗濯物のシワが多いとか。何かとつけて祖母は母を詰った。嫌みをこぼした。これ見よがしに料理やアイロンがけをしていた事もあった。主婦歴に大きな差があるわけなので母は敵うわけなかった。その上祖母は離婚しており、戦後の混乱期に原爆で草木も燃え付くした広島で父とその姉(叔母)を女で一つで育て上げた。父は四大と叔母は短大まで出した。勿論学費はほぼ祖母が出したらしい。下宿費も含めて。そのプライドとか自負とか矜持とかあったのだろう。だからなおさら、夫婦共働きなのに。と母の至らないところが目についたのだろう。時代錯誤も甚だしい。と今の私なら祖母と母の間をやんわりと持てたのかもしれない。

私が小学校に上がる頃には母のパート時間も少しずつ伸びていった。妹の送り迎えを母が行い、私は鍵っ子で学童に週3で行き、それ以外は家にいた。母の仕事は時折長引きその日は夕食が簡単なものだったり、惣菜だったりした。私や妹は唐揚げだのポテトフライだの、コロッケだのと喜んで食べていたが祖母はその事を良しとしなかった。この頃から祖母は自分のご飯だけ別でつくって食べるようになった気がする。冷蔵庫の一部スペースが祖母のスペースとなりそこにいつも作りおきのおかずがタッパーに入っていた。

土曜日も母が仕事だったり、夏休みや冬休み、振り替え休日、半日帰りなどの日は祖母が作りおきのおかずをお昼に食べさせてくれた。母とは違う味付けだった。

小学校に上がる少し前から「お姉ちゃんだから」と家事を手伝うことが増えた。最初は母や祖母の手伝い程度だったが、小学校2年生ぐらいになると卵焼きや味噌汁などは自分で作るようになった。後々調理師や栄養士を志すきっかけになったのは言うまでもない。

相変わらず父は単身赴任であちこちの支店や営業所勤務だった。帰ってくる頻度は赴任先によってだった。月1だったり2週に1度だったり。数ヵ月に1度だったり。

母と祖母の確執も年中無休で続き、私が徐々に物事に理解がつくようになるとお互いの愚痴の聞き役と化した。詰られ嫌みを言われ否定される母親から祖母の愚痴を聞き、共感し「お母さんの事好きだよ」と伝える。

祖母の機嫌が悪くなれば祖母のとなりで戦後の混乱期にどれだけ苦労したか、今がどれだけ恵まれてるか、それだと言うのに不出来な嫁だと言う不満を黙って聞きいる。時折頷きながら。

ある日は母がアイロンをかけ終えた父のシャツにシワを見つけ嫌みを大声で垂らしながらアイロンをかけ直す祖母。またある日は母の作った夕飯が気に召さなかったのか個盛りの皿ごと食卓の中心に押しやって、自分の作りおきのおかずを母の前で食べる。広告品のスナック菓子を母が私らのおやつにとまとめて買っておいてたら「こんなものを食べさせおって」とわざわざ果物を別で買って私らに出したり、土曜日も仕事で焼きそばやオムライスなど電子レンジで再加熱したら食べれるお昼を作りおきしてくれていた。母が出勤したあとに、私らに「こんな粗末なものつくって」とぼやいていた。

母は言い返すことは1度もなく、ただ部屋でひたすら指先の逆剥けをむしったり、ガラケーをいじったりとしていたが隠しきれない悲しみや怒りややりきれなさが溢れていた。どちらの味方につくわけにもいかず八方美人な態度をとるしかなかった。慰めて愚痴を聞き、共感する。何度も何度も繰り返す。

時たま父が赴任先から帰るとやれ掃除がなってない、散らかってる。娘の成績の出来が良くない。などと私や母に当たり散らしていた。

掃除がなってない。未だに父が帰ると言う。

母のストレス解消が買い物なのだ。衣類やカバン、靴、アクセサリー、好きなグッズ…コレクターなところもあるのかはたまた発達の傾向なのかとにもかくにも買うことでストレスを発散させている。これは今も続き、実家に帰ると見慣れないものがあるのがもはや当たり前なのだ。買うのはいいが捨てるのを躊躇う人なのでどんどんものが増えていく。多分本人ももう把握しきれてないと思ってる。聞けないけど。

ストレスの捌け口なのを分かってるから私は止めることはしなかった。ただ、「これどう思う?」と購入検討品を指されると「うーん。ちっと考えてみたら?」とか「サイズとか測ったほうがいいんじゃない」とやんわり勢いで購入しないように話していた

祖母も父もモノが増えていくことに頭を悩ませ、その度に「処分しろ」「全部捨てて片付けてしまえ」と言い、時には市指定の燃やすゴミ袋に片っ端から突っ込む暴挙に出た

私はその度に止めた。「お父さんやおばあちゃんには分からなくても、お母さんにしたら大切なものだと思うから」

このゴタゴタに私物を一緒に捨てられた事がある。悲しいことに1度や2度ではない。必要なものだったり、学校関連の提出物だったり。多岐にわたる。学校で捨てられたとも言えず「失くしました」という惨めさよ。

度々喧嘩になりながら。私が泣いて懇願し止めながら。時間だけが過ぎていった。たまにケンカや妬みのない穏やかな停戦はあったがふとした瞬間に嫁姑の戦いの火蓋が落とされる。

高学年になると学校が休みの日は家事や料理を任されるようになった。主婦の真似事だが、ごみを捨て、洗濯を回し、干して、モノだらけの床に掃除機をかける。お世辞にもキレイとは言えないが私物以外が多すぎてもう手がつけられないのだ。

お風呂掃除をして洗濯物を取り込む。アイロンをかけ、ご飯を作る。私の作ったものは祖母は食べた。母も食べた。祖母は食卓で「料理ってこういうもの。心がこもってるもの」と口にし、母は家ですれ違った時や、キッチンで一緒になったときに「美味しかったよ」と言ってくれた。父も帰ってくると私の料理は食べた。ああした方がいい、味が濃い、切り方が悪いと注文は多かったが。

私と妹のケンカも絶えなかったが、嫁姑の不仲も絶えなかった。いつもギスギスして家族団らんの時間とは程遠い家庭だった。

小学校の卒業文集には将来の夢に「料理人」と書いていた。私が作れば多少失敗しても家族五人で「一緒の食卓を囲める」理想の家庭像からは果てしなく遠かったがそれでも良かった。いや満足しようとしていたのだろう。

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