ディーリア・オーエンズ『ザリガニの鳴くところ』(早川書房 2020年)

【あらすじ】
町一番の好青年が湿地で死体となって見つかった。その死には不可解なところがみられる。その容疑者として挙げられた「湿地の少女」と呼ばれた女性、カイア。家族に見捨てられ、愛を求め、しかし孤独を深め、湿地の自然と共に生きる彼女の人生を描いた作品。彼女にとっての「ザリガニの鳴くところ」はどこなのか。

【感想】
いわゆるフーダニット(誰が殺したか)のミステリーだが、読んでわかる通り、犯人捜しをするだけの一辺倒のミステリーではない。これは一人の、孤独にあがき、愛を求め、自然と生きた女性の物語である。

帯に作家の島本理生が次の感想を寄せている。
「泣いたのは、森で一人ぼっちの彼女が、自分と重なったからだ。――同じ女性だというだけで。」

「湿地の少女」と呼ばれた主人公カイアの人生は、その時代性もあるだろうが、読者にとって一般的な境遇とは言えない。家族は一人ずつ姿を消し(両親さえも)、文字も読めない幼い身でありながら、貝を集めることで生計を立てる。ましてや湿地に馴染みのない日本人にはより遠い存在に思える。それでも、本書の読者が彼女に共感し、同じような痛みを覚えるのは、彼女の孤独に自分を重ねることができるだけの普遍性がそこにあるからだ。
例えば島本が述べたように、女性という部分に着目すれば、孤独故に異性を求め、それに葛藤する場面に。
ただ精神的に支えてもらうことを求めるだけでなく、多くの女性(男性含め人間が、と言ってもおそらく差し支えはない)がそうであるように、肉体的にも異性を求めている。それは人間として、あるいは作中の表現に倣って言うならば、自然として、当然のことである。

誰かといっしょにいたい、求められたい、触れられたい。そんな単純な願いからカイアは誘いに乗ったのだった。だが、性急で強引な手はただ奪うだけで、分かち合うことも、与えてくれることもなかった。 p226

カイアがチェイスの誘いに乗り、初めて体を許した場面だ。寂しさに流され、誰かと身体を重ねること。しかし、求めていた慰めは得られない。それがいっそう孤独を深めていく。

カイアは彼のために笑った。以前なら絶対にしなかったことだ。誰かといっしょにいるために、カイアはまたひとつ、自分の一部を手放したのだった。p246

誰かと一緒にいるために、笑ってみせる。私たちが当たり前にやってしまっていることを、作者は「自分の一部を手放」すと抒情的に述べてみせる。彼女にとっての「ザリガニの鳴くところ」はここではないのだ。そして、この部分に自分を重ね、その痛みに覚えのある読者にとっても。

作中にはたびたび彼女の心情に合わせるように、詩が引用されている。後半になるにつれ、アマンダ・ハミルトンという一人の架空の作家の詩の引用が目に見えて増えてくる。

おぼろげな月よ 歩く私の
あとをついてこい
地上の影にも乱されることなく
その光を投げかけて
そしてともに感じてほしい
沈黙した肩の冷たさを

月よ あなただけは知っているだろう
孤独によって 一瞬はどれほど長く
はるか遠くまで
引き伸ばされていくことか
ときを遡るなら
砂浜からその空までは
ほんのひと息でたどり着けるというのに 296-297p

彼女の孤独に寄り添えるのは月だけである。
しかし、その月も彼女のそばにはいない。彼女の肩の冷たさを暖めてくれはしない。暖めるはずだったチェイスの腕は、違う女性の肩に置かれていたから。

かように彼女は愛に傷つけられ、孤独を深めていく。孤独は沼のように彼女の周りを固めていき、どんどん沈めていく。またもアマンダ・ハミルトンの詩を引用しよう。

あなたはまた現われて
波にきらめく日差しのように
私の目をくらませた
解き放たれたと思ったそのとき
月の光が戸口に立つあなたの顔を照らし出す
あなたを忘れるたび
その瞳が蘇り 私の心は立ちすくむ
だから別れを告げよう
またあなたが現れる日まで
二度とあなたを見なくなるまで 483p

カイアが「『気づかなかった。言葉がこんなにたくさんのことを表せるなんて、ひとつの文に、こんなにいっぱい言葉が詰まっているなんて』」(144p)と初めて、テイトから言葉を習ったときの感動のように、詩はその文の中に実に多くの意味を含んでいる。
ここの「あなた」も、テイトやチェイスを当てはめることもできるだろうし、あるいは「愛」と抽象的に読み取ってもいいだろう。
どちらにせよ離別の詩であり、あるいは覚悟の詩でもある。

チェイス殺しの裁判がカイアの無罪で終わり、互いの愛情を再発見したカイアとテイトは共に暮らし始める。この場面はどこか違和感を覚える。彼女にとっての「ザリガニの鳴くところ」はテイトのそばなのか。この小説は二人のラブストーリーだったのか。
そうではない。カイアが62歳でこの世を去ったとき、テイトは彼女が密かに収集していたアマンダ・ハミルトンの詩を見つける。
そこでテイトは気づくのだが、アマンダ・ハミルトンという詩人はカイアその人だったのだ。そして未発表の詩を見つける。「ホタル」と題された詩だ。

愛の信号を灯すのと同じぐらい
彼をおびき寄せるのはたやすかった。
けれど雌のホタルのように
そこには死への誘いが隠されていた。

最後の仕上げ、
まだ終わっていない、
あと一歩、それが罠。
下へ下へ、彼が落ちる。
その目は私を捉えつづける
もうひとつの世界を目にするときまで。

私はその目のなかに変化を見た。
問いかけ、
答えを見つけ、
終わりを知った目。

愛もまた移ろうもの
いつかはそれも、生まれるまえの場所へと戻っていく。503-504p

チェイスを殺したのはカイアだった。罪の告白の詩作であり、彼女の愛に対する一つの答えが示された詩でもある。
彼女はどこまでも「湿地の少女」だった。蔑まれ、そこでしか生きられかった彼女。彼女にとっての「ザリガニの鳴くところ」――「茂みの奥深く、生き物たちが自然のままの姿で生きてる場所」(155p)――はチェイスのそばでは当然ないし、テイトのそばでもなかった。
「湿地の少女」として生き、「湿地の少女」として死んだ彼女にとっては、やはり「湿地」以外にはありえない。悩み苦しみ人を殺し、ついに手に入れたアイデンティティなのだ。

しばらくは心に残り続ける作品になるだろう。殺人犯であるところの彼女を断罪する気にはなれないから。それは私にとって、身を切るような痛みを伴うから。


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