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はじめに#1 noteで書く理由

ロバート・キャパ最期の日
2004年に東京書籍より出版された「ロバート・キャパ最期の日」は、
巻末に資料としてフィールドのノートの一部を載せた。
そのころ、文章を書くことにこだわっていたので、写真であまり説明をしたくはなかった。
出版したあとしばらくして、写真を交えた立体的な構成をこころみた。
サイト上でも、いろいろ試してみたが、不満だった。時期が早かったのかもしれない。
これは1954年4月13日(火)の日本到着から5月1日に離日し、
バンコクからサイゴンに向かい、ハノイ、ラオス、ブランパパーン、再びハノイに向かい、フーリー、ナムディン、
そして5月25日のナムディン、タイビン、そして地雷を踏んだタンネまでの41日間の記録だ。
ロバート・キャパ享年40歳。

2013年横浜美術館でのロバート・キャパ写真展のおり、
キャパの日本滞在と死について、カタログに書かせていただいたが、それは唯一英語に翻訳されたキャパの最期の記事だ。

notey横浜S

日本語5p、英語訳3p

そのカタログのなかの、日本とベトナムの写真の場所の名前など以前のままの間違いがあり、固定されている。このあたりも訂正される必要があると思い、やはり僕が調べてたことを残す必要があると思っていた。
それがnoteと出会い、発表することにした。
ただ、まだ完成形ではない。すでに書いたところも日々変化してゆくかもしれない。例えば僕が持っている、未発表の資料やキャパの写真を載せることは今の時点ではできない。ただきちんとキャパの死を完成させ、今後のロバート・キャパの写真の管理者と交渉することになる。正確に言えば、今の載せているものも著作権上は問題があることは自覚している。これはこの研究を続けるための実験版、クリティックなので、指摘されるまで続けることにしている。
何が完成かといえば、この日本語版の英語翻訳までと考えている。
そこからは、紙の本として英語版を作ることを目的としている。

現在は海外のサイトでキャパをとりあげたものは多いが、日本とインドシナの部分は、僕が書いたこと以上の事実はどこにも書かれていない。
そして何より2004年キャパ没50年のキャパの死の場所は、
完璧に残っていた。
そればかりか、1954年を生きた人が
日本にもベトナムにいたということだ。いまやほとんどの人がなくなり
1954年のキャパを語る人はいない。
ベトナムは西暦2000年前後を境にして、急激に都市化した。
取材した2004年でさえ、ナムディンからタイビンまではすでに橋がかかり、
道路は整備され、まったく風景は変わっていた。
運よく、キャパの死の場所は、田舎だったからだろう
50年前とさほど変わらない景色がその場所だけ、
キャパが最期に撮った写真の場所、空間が、50年間そのままに残っていたたのだ。
それはまるでキャパが僕の取材は待っていたかのような奇跡だった。
翌年、韓国の靴工場がたち、キャパの撮った写真の面影は
まったくわからなくなってしまった。
このことは本編のベトナム編で書く。


僕の心のなかの、ロバート・キャパと一ノ瀬泰造の関係

1994年に初めてベトナムを訪れて僕はベトナムという国に、
すっかり魅せられてしまった。
このくだりは「サイゴンの昼下がり」に書いたが
キャパの伝記作家リチャードウイーラン(訳 沢木耕太郎)が、キャパの死の場所や時間などを克明に記しているので簡単に見つかると思い、1998年、花でも手向けようと、その地を訪れた。
http://urx.blue/coyV

キャパとは時代は違うが同じ仏領インドシナのカンボジアで、
1973年友人赤塚に「地雷を踏んだらさようなら」と手紙を残しベトナムにたち、カンボジアのシェムリアップ郊外で行方不明になり、のちにクメールルージュに殺害された一ノ瀬泰造。
実は彼は日芸の写真学科の僕の一つ先輩であり、同じサークルに属していた縁がある。彼が行方不明になったとき、僕はアシスタントのまっさい中だった。同じサークルの先輩たちが、一ノ瀬救出の運動をしていたが、僕は何もしなかった。

僕は1994年から通ったベトナムの写真がたまり写真集にしようと奔走していた。すでにベトナムブームははじまっていたが、純粋な写真集では大手の出版社からだすのは無理だった。
そのとき、新潮社のフォトミュゼの宮本編集長が、アオザイの写真を表紙につかい、文章を書くのなら出版してくれると言った。
「わかりました」
僕は、それまで文章をきちんと書いたことがなかった。写真を言葉で語るなってナンセンス、写真のことをわかってない。写真にことばはいらないと、極力文章を書く仕事は避けていた。
でも、背に腹は代えられない。
エピソードを紡ぐためのモチーフとして、自分にとってリアル人間、そして人知れず死んでいった、若い一ノ瀬と、死ぬ瞬間まで有名人としてレポートされた世界的な写真家ロバート・キャパとのコントラストなら書けると、二人の取材や資料をあさった。

一ノ瀬については商船大から報道写真家になり一ノ瀬の、
最初の写真集の編纂にかかわった浅田恒穂にいろいろアドバイスをもらった。実は彼は、僕が篠山さんの助手時代、アサヒカメラで、篠山紀信と一緒に旅行をする企画があり、応募した彼と一緒に旅をした。
このへんのことは、noteのマガジン「僕のアサヒカメラ」に書いてある。
応募して一緒に旅行をしたのは、ドイテクニカルフォトの笠原さんという女性だ。ぼくの写真集「あの日の彼 あの日の彼女」にも載っている。
そんなふうに篠山さんと4人で東北を3泊4日旅した仲だ。
キャパの死の地の訪問の準備は、実はリチャードウイーラン(沢木耕太郎訳)を読んだくらいでごく軽いものだった。
キャパは世界で一番有名な報道写真家だ。
きっと「キャパここで亡くなく」と記念碑でも
立っていると思っていたぐらいが本音だ。
ところが、死の土地、ベトナム北部ナムディンからタイビンに行く道すがら、まだそのころは、田舎では住民への直接インタビューは難しい時代だった。僕の日本語通訳である、チュンさんは、元ベトコン、元公安、そんな彼が、報道ビザを持っていない僕にインタビューは注意したほうがいいと忠告した。ベトナムは社会主義の国、自由主義の国とは違うのだ。
僕のキャパについての資料は、伝記の後編と
最後の写真と言われていた、モノクロ写真だけだった。



そのへんのくだりは「サイゴンの昼下がり」に書いた。結局、伝記に書いてある場所は、見つからなかった。狐につままれるとはこのことだ。
なんといっても伝記に記された地名がタイビンに存在していないからだ。
50年前の戦争中のことだ。外国人がつけた名称である可能性もある。 
リチャード・ウイーランのソースは、キャパの死の瞬間まで同行した、ライフの若い記者、ジョン・メクリンの、ライフに掲載されたキャパ追悼記事ががすべてだ。ベトナムでも、日本でも、本の資料以外一切調べていない。
僕は、ベトナムのサウナのような空気のなか、その場所に立ち、
頭のなかが真っ白になった。
あまりに資料が少なすぎた。3時間以上クルマで走り回ったが
何の糸口もつかめなかった。
僕はあきらめ、もっと下調べをして再度挑戦するつもりだった。
 
それが気づいたら
2003年の12月になっていた。
少しずつ資料を集めていたが翌年5月24日がキャパ没50年だ。
やばい時間がないと思い、他の仕事はストップして徹底的にキャパを調べたはじめた。
当時はBLOG以前、僕はHomepageを持っていてWeb日記をつけていた。けっこう人気でかなりの人がファンがいた。僕は読者に問いかけた。さまざまな情報が集まった。僕のBlogはいまよりずっとたくさんの人が見ていたからだ。
そのアドバイスから国内の取材を終えて2004年4月から5月にかけてベトナムを訪れた。
今回は準備ばんたん必ず見つかる自信があった。
それでもいくつかの偶然が味方しなければ壁にぶちあたっただろう。
ベトナムは急速に発展し、1998年の田舎道の国道は、綺麗に舗装された道路に代わり写真を比べてもわからないほど、変わっていた。
ベトナムの写真家協会にも協力してもらい、
多くの地元の人のインタビューの機会を持った。
そうしてようやく、いくつかの場所の名前が解き明かされた。
なにより、日本語通訳のチュンさんがコネクションがたくさんあり
父親関係から、ディエンビエンフーの戦いの研究者や、
当時のハノイのホテルのことなど、
どこにも書いていないことがインタビューできた。
またなぜかこわもてのチュンさんが、
土地の老人たちに信頼感があり彼らはいちおうに心を開いた。
そして次々と、不明だった地名の謎が解けていった。

5月の頭、ついにその場所を見つけた。
50年間の時の隔たりで様変わりしたその土地は、
それでも、
キャパの写った写真とメクリンの記述はほぼ正確に配置どおりだった。
そして決定的な現物証拠、
キャパの写真の中に写っている物的証拠も見つけた。
リチャードウイーランの伝記より、
そのソースであるライフの
ジョン・メクリンの追悼記事に、
記されたとおりにそのすべてがそこにあった。
リチャードウイーランの伝記では
削除された、メクリンの記事のある部分は不要と割愛されているが、
その部分こそがキャパの死の理由だ。

画像2

これがキャパが地雷を踏む数分前に撮った写真だ。緊張感のない、まるでハイキングのような前進。前方に戦車が見える。
1998年に訪れた時は、モノクロの写真しか持っていなかった。
モノクロは不気味で、キャパの最後を予感するような暗い写真だが、
カラーどこかあっけらかんとしている。
この写真をよく見てみよう。何か不思議だ。僕は残され、発表されているこの日の写真を克明に観察した。
そう。不思議なのはアングルだ。妙に高い。
キャパはこのあと、前方左の土手の上に上がったところで地雷を踏む。
なぜそんな行為をしたのだろうか。
僕はそれも解明した。
キャパが撮ったこのカラーの写真には、キャパが地雷を踏んだ場所が写っている。

0525capa最期の地1920

写真は、2004年5月22日、25日にはベトナム写真家協会と一緒に、キャパの慰霊祭をすることにしていた。その準備にほぼ同じアングルで撮っている。

ずいぶん昔、初めてサイパンに行ったとき、太平洋戦争のモノクロ写真があった。印刷の悪いモノクロ写真は、戦争の写真は、モノクロの暗い海に浮かぶ死体が悲惨な戦争を象徴していた。
でも、実際のサイパンは、美しエメラルドグリーンの海だ。
その死体も、現実は美しいエメラルドグリーの海に浮いていたはずだ。
僕はその光景を想像した。すると、モノクロとは違った、
日常のなかの死がイメージできた。そう戦争は現実は、日常なのだ。
その日常のなかで、人々は死んでゆく。
カラー写真の戦争は、モノクロとは違った悲しみがある。

このnoteのマガジンの記事は20回ぐらいにはなるので、マガジンとして購入したほうが、お得です。


Robert Capa最期の日
バックナンバー

このシリーズは、全部で20回以上続きます。
お読みになりたいかたは、マガジンで購入すると、今後もそのままの価格でご覧になれます。現在の価格は、¥2000です。
このシリーズは、完成形ではありません。半公開をしながら、日々、調査したことを反映し、ロバートキャパの晩年、「失意の死」を検証することです。本当にキャパは、行かなくてよい戦争にゆき、死ななくてよい、汚点だったのでしょうか?そのため、キャパの自伝の、公式版でも非公式版でも日本滞在と、ベトナムでの死について深く調査はされていません。
キャパの死の土地は、1954年から僕が取材した2004年まで、市街地化したベトナムでも、唯一その場所だけが残っていましたが、僕が取材した半年後韓国の靴工場になってしまいました。キャパが最後に撮った場所は、今はもう存在していません。僕がその場所を特定することを待っていたかのような奇跡でもあります。

ロバート・キャパ最期の日 マガジン 

#1 「ロバ―ト・キャパ最期の日」をnoteで書く理由。
#2 「崩れ落ちる兵士」は、FAKEか? 無料

ロバート・キャパ最期の日
01 ロバートキャパ最期の日 インドシナで死んだ二人のカメラマン
02 キャパの死の場所が見つからない 
03 ロバート・キャパ日本に到着する
04 ロバート・キャパ東京滞在
05 キャパと熱海のブレファスト
06 キャパ日本滞在 焼津~関西旅行 生い立ち
07 1954年4月27日 カメラ毎日創刊パーティ
08 ロバート・キャパ、日本を発つ 4月29日~5月1日
09 キャパ日本滞在中 通訳をした金沢秀憲に会いにゆく
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