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#2 「崩れ落ちる兵士」は、FAKEか!

答えはYES.である。But?                無料です。

キャパ没70年、写真は商業目的でなければパブリックドメインと考えてます。

Capa life 1936年

この写真は広告写真なのだ!
ジャーナリズムとは 、自由主義陣営のプロパガンダなのだ。

ロバート・キャパ最期の日

2004年、キャパ没50年に「ロバート・キャパの最期日」を出版した。ノンフィクションで文字主体だったので、キャパと僕の写真を交えた立体的な本を作りたいと思っていた。
写真の著作権のこともあるが、評論ということで、未公開のものも含めて、取材したものを残そうと思った。Noteはそれにふさわしい機能を持っている。
リチャードウイーランのキャパの伝記(訳 沢木耕太郎)では、1954年の日本滞在、突然のベトナムに行き、そして地雷を踏んで死ぬくだりが、ぼくから見るとおざなりな調査で、納得できなかったからだ。
こうやってnoteの「マガジン」に書き始めたが、ひさしぶりにいろいろ検索をすると、気になる論調に違和感があった。
それは、NHKの番組で、沢木耕太郎の「キャパの十字架」をもとにした特番のことだった。

特にザウルス氏の評はかなり辛らつだ。
すでに他の人間が(外国で)調査しているように、あの崩れ落ち兵士の写真がFAKEであることはとっくに証明されている。
それを番組では、まるで沢木耕太郎があの写真のFAKEを新発見したような
作りになっていて、それは情報操作でありパクリだと言うのだ。

僕もあの番組を見たとき驚いた。
テレビというメディアは、年よりから子供まで、
予備知識なしで見るメディアだ。
ロバート・キャパなんてまったく知らない人間が見る。
そのテレビを見て、ロバート・キャパは、FAKEなインチキ写真家なのだと思ってしまった人はたくさんいるのではないか。

この写真がFAKEであることは、ずっと以前から言われていたことだ。そういう記事もある。反証として実際崩れ落ちる兵士を突き止めた、といった記事も存在した。結局は間違いだったが。
1946年生まれの、リチャード・ウイーランはキャパの研究家で伝記の作家だ。ICPでキャパの弟コーネル・キャパの協力を得ていた。
細かい資料研究はするが、学研肌でフィールドワークはしない。
「崩れ落ちる兵士」の件は、コーネルに気遣い判断を停止していたと思う。
残念ながら、コーネルの死の前年に亡くなり、自殺だとう言う説もある。だから彼の本意は不明だ。

1913年生まれの、ロバート・キャパ、本名アンドレフリードマンは
17歳の時、ハンガリーから共産主義者と疑われ逃げ出した若者だ。
きちんとしたパスポートさえ持っていない。
難民の証明書ぐらいだろう。
アンドレはドイツで写真を学ぶ。19歳の時、運よく、ソ連の革命家トロツキーを撮る機会がある。しかしそのことで有名になったわけではない。
クレジットは、アンドレ・フリードマンだった。

トロツキー


1933年アンドレはパリに来る。そこで3歳年上のゲルダ・ポポリレスと出会うドイツ系のユダヤ人だ。ルックスも洗練していたゲルダはアンドレを弟のように、身なりからアドバイスをした。
二人はチームを組む。チーム「ロバート・キャパ」だ。
これは有名な話だが、ゲルダと結託、アメリカの著名な写真家
「ロバート・キャパ」のマネジメントをしているという設定にして
雑誌から高いギャラをせしめるというアイデアだった。
有名な映画監督フランク・キャプラから名前は拝借したらしい。
キャパこと、アンドレフリードマンは、ハンガリー人だ。
ヨーロッパ言語と体系が違い、ハンガリー人はハンデがあった。語学が苦手だ。ハンガリー人の写真家が多いのは、そのせいだといわれている。
キャパは何ケ国語も話した。友人だったヘミングウエイは、キャパ語と言っていた。

ゲルダが写真の売り込み、暗室をアンドレと、いつも不在のアメリカの著名な写真家ロバート・キャパの写真は、実はアンドレが撮っていた。
そんなこと見破っていた人もいたが、なんとか仕事にはありついた。
そのうちアンドレはロバート・キャパになっていた。

ゲルダはキャパと一緒にいて写真を撮るようになる。友人の岡本タローから拝借して、ゲルダ・タローの名で写真も発表しはじめた。二人で撮った写真をロバート・キャパの名で発表することもあった。
1936年、ヒットラーがベルリンオリンピックでやりたいほうだいしている時、スペインでは独裁者フランコと、
社会主義に影響された共和国政府の衝突があった。
この頃の社会主義、共産主義は、今と違い「善」の時代だ。
民主主義に敵対する思想ではなかった。もっといえば、資本主義から進化した思想だった。共産主義、社会主義が「悪?」になったのは、結局独裁国家になりさがったソ連の失敗による。

ふたりは一緒にスペインに取材にでかける。それにはひとりより二人が有利だ。なぜならルポルタージュには複眼的な視点が必要だからだ。全体を撮りながら、細部を撮ることは一度にはできない。刻々と変化する対象を撮るにはチームで撮ることになることになる。

1998年僕はベトナム北部の町でキャパの死の場所をさがしていた。
ロバート・キャパのことが格別好きというわけでもなかった。写真の歴史上の偉人だ。好きも嫌いもなかった。
僕は、1994年に訪れたベトナムに魅せられ、狂ったように通った。
1998年それまで撮った写真をまとめようと思い、大手出版社に売り込んだ。しかし純粋な写真集は難しいと言われた。
そんなとき、新潮社のフォトミュゼの宮本和英編集長が、アオザイの写真を表紙にして、文章も書くなら、写文集としてだしてくれると言った。

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僕はそれまで文章を書くことに抵抗があった。
写真をことばでかたるなんて。
理想はことばに頼らない写真を撮ることが目標だった。
でも、背に腹はかえられない。「わかりました書きます」と返事をした。

大学の一つ先輩に一ノ瀬泰造がいた。彼はベトナムでストリンガーをやっていた。そしてカンボジアでクメールルージュにつかまり、殺された。一ノ瀬は無名のまま、人知れず死んだ。
それにひきかえキャパはスポットライトを浴びるように
克明にその死の瞬間までをレポートされている。
そのコントラストを書こうと思った。
そしてキャパの死の場所を探そうとしと現地に行く。
ところが距離も、場所の名前すらわからなかった。
きちんと調べてもう一度来ようと思った。
そこからキャパについて猛勉強をした。そうすると巷で言われている、キャパと僕の頭の中のキャパがしだいい乖離してきた。キャパがだんだん好きになり、そして猛烈にいとおしくなってきた。
1954年4月、日本に来た時のエピソードは目を見張った。
伝記作家リチャート・ウイーランはどうでもよかったのだろう。
日本滞在は、キャパの人生のなかで、ただの仕事、
そして必要のなかったはずのベトナム。
キャパはやはり、若い時代の奔放さが頂点だ。
だからキャパの後半人生には力が入っていない。
しかし、調べてゆくと決してキャは物見遊山の日本旅行なんかしていなかった。
40歳になり、まるでスポーツ選手のように、
すっかり弱っていたキャパは
日本に来て再生した。
そして、それがキャパの死の理由だ。

脱線。これは違うところで書くことだった。

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2004年の没後50年に出版した「ロバート・キャパ最期の日」
崩れ落ち兵士の問題に触れている。
僕の、考えは、キャパが撮ったことは事実だが、
その写真が兵士が撃たれて死んだ瞬間の写真だとキャパは意識していなかったのではと思う。
今のようなデジタル時代と違い、
撮るだけで、現像しなければ何が写っているのかわからない。
戦場で現像し、プリントすることは無理だ。
キャパはフランスの左翼誌、ビューに投稿するために撮っていた。
フランコと共和国は確実に衝突している。
何んらかの原稿を送る必要がある。当然未現像のフィルムを送ることになる。そのころになるとゲルダも写真をかなり撮るようになっていた。
ゲルダは、ゲルダダローとクレジットすることもあるが、二人で撮ったものはロバート・キャパという名で発表する。
いくら戦場でも戦闘の場面に遭遇することは簡単ではない。
すべての報道カメラの宿命だ。それは運しだい。かといって何も送らないわけにはいかない。記者だったら、誰かに聞いたいことでレポートすることもできる。しかし写真はネタが必要だ。
それはFAKEというえば、FAKEだが、例えばテレビの放送でも、演出効果のため、スタジオで別どりしたものを挿入する。
写真も映像も、何かを伝えるためには素材を集める必要がる。
だいたい本当の戦闘中なんて撮ることはできない。
(のちにキャパはDデイでそれができることを証明したが)。
例えばポートレイト写真で銃を構えてもらい、横から撮る。希に銃をこちらに向ける。それはやらせだろうか。
そういう演出写真は無限にある。

崩れ落ちる兵士の写真は、あの一枚だけではない。
一連の、けっこうな枚数が残されている。
全体を見れば、戦闘ではなく、訓練だとは誰でもわかる。
ルポルタージュでも、そういう写真を撮ることは普通のことだ。
ドキュメンタリー映画でも、素材を集める。空の雲も必要だ。迫力をだすために足元を撮る。写真も、
一枚の傑作写真を見せるのでなければ、さまざまな素材を組み合わる。

キャパは、スペインで撮ったフィルムをフランスのビュー誌に送った。
(途中どこかで誰かが現像している可能性もあるが。)
フィルムには、日付と場所、撮影感度、そしてキャプションを添えるのが普通だ。
雑誌は、編集者やディレクターがいて、写真を選び、構成する。そのなかに、あの崩れ落ちる兵士の一連の写真があった。
そこで閃いただれかがいる。

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左ページのキャプションは詩のような文章がついている。僕が適当に訳してみた。

その力強い足腰は
胸に風を受けながら
銃をかかえ荒草の斜面を駆けおりてゆく
突然、時間が凍りつき 銃弾は空気を切り裂き振動する
ああ、同じ祖国を持つ敵の銃弾よ
兵士たちの血は、
故郷の大地にしみこんでいった

これは左翼のプロパガンダ、広告写真なのだ。

これらの写真は何のために存在しているのか。
真実かどうかは、現代の基準だ。
キャパのその時代、自由主義、共産主義、ファシズムの三つ巴だ。
何より、自己肯定には「善」か「悪」かが問題だ。

フランスの左翼雑誌ヴェ誌は憎き、
独裁者フランコの悪事を報道する役目があった。
兵士が死んでゆく刹那、こんなに悲惨なことがあろうか。反ヒットラー。
それは善なのだ。

目的があるから、深くは考えていないから、まったく同じ場所で、違い兵士が倒れている、茶番も気にならない。
事実かどうかではなく、善か悪かだ。
これは典型的な、左翼新聞のプロパガンダだ。
そしてこれが不思議なことだけれど、
2枚のならんだ写真の一枚を、
たぶん通信社から買い取り、ライフはRobert Capaの名で、発表した。
通信社を通せば、一枚の写真を、世界中で使いまわすことになる。
兵士が死ぬ瞬間の衝撃的な写真。
創刊されたばかりのライフ誌の、世界的スクープとして発表された。
それが真実かどうかではない。
アメリカもまた、反ナチズムの報道だった。
それが善なのだ。ある意味これも、民主主義が正しいというプロパガンダだ。
政治宣伝。
この写真はコマーシャル写真だ。
正義、民主主義のためならなんでもありだ。

キャパ突然世界的カメラマンになった。
世界NO.1のグラフ誌に、
さっそうとデビューした新人報道写真家、23歳の難民、若者。
その後多くの写真をLIFEに発表する。

独り歩きした写真。
そしてゲルダの事故死。
永遠に、真実はわからない。
聞くものもいない。
キャパがいうように、写っているそのままだ。

そしてこの虚飾の写真を乗り越えるように、
Dデイの写真を撮り、
ヒューマニズムあふれた、パリ入場、ドイツ軍協力者の写真を撮る。

さて、話を戻そう。
僕は、キャパについてのリテラシーがあるので、
FAKEかどうかについては、気にならなかったが、
沢木の発見だろうか、真横から撮った写真に、崩れ落ちる兵士が
写っているという発見に驚いた。

倒れる横から
背後に写っている兵士が、崩れ落ちる兵士だという沢木のアイデア。下の写真と背景のボケ具合は違う。近寄れば背景はボケ、引いて撮ると背景はパンフォーカスになる。この写真のアスペクトは4:3だ。しかし黒枠がある。この写真もキャパが撮ったものだと言える。

坂を駆け降りる兵士、その向こう側に崩れ落ちる兵士の一瞬前が写っているとされている。沢木耕太郎の発見!

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崩れ落ちる兵士の右端にある、白い影は度の写真にも同じように描写されている。この写真は微妙にブレている。写真は実は巧妙にトリミングされている。
上の写真と雲の動きからすると、さして変わっていない。数分以内の出来事だ。こちらの写真はぶれていないので、枯草の描写が克明だ。背景の、ナイフ状のハイライトは綺麗に重なる。上の写真がゲルダとうことなると、この写真もゲルダということになる。他の写真を検証すると、どれもキャパが撮っているように見える。

ただ、それがキャパが撮ったかゲルダが撮ったかは、あまり意味がない。この写真を見たとき、写真でよくやるやり方だなと思った。それはスポーツでもそうだが、実際のスポーツも試合の最中に近づくことはできない。そういう写真を撮りたければ、練習中にやるしかない。映像では多用する。真実を撮りたいのではなく、迫力が撮りたいからだ。リアリティが欲しい。リアリティとは、本物らしさだ。写真にとっては、セットしようが、自然だろうが同じことだ。同じように、カメラの前に起きたことは、それだけで真実だ。ただこれ、倒れたのか、死の瞬間かは、語っていない。どういう風に見えるかだろう。ただ、この写真はあたかも、狙撃された瞬間に見えるだけだ。事実は関係ない。そして、写真のこの手法は、広告ではあたりまえのように使われる。うまそうに見えるビール。本人が、うまいかどうかではなく、うまそうに見えるかだ。かつてサッポロビールの広告をやっていた三船敏郎は実はビールは飲めないそうだ。でもうまそうに飲んでいた。本当にそうなのか、そう見えるかは、写真の問題でもあり、写真の秘密でもある。そうでなければ、了承され、向かい合ったポートレイト撮影はすべてFAKEになる。誰も、盗み撮りだけが、真実だ、なんて思わないだろう。写真は、真実かウソは写っていない。レンズの前の、光学的なありのままが写っている写真とは(フォトグラフィ=光の絵)なのだそれを巧妙に利用する。そこが写真の面白くて、深いところだ。さて、さて、その沢木の発見はすごいが、それをゲルダが撮ったというのは、茶番だろう。これは映画でも写真でもよくやる、待ち伏せ撮影だが、複数のカメラで、走ってくる瞬間を撮る。転ぼうが、通り過ぎようがどちらでもいい。撮りたいのは兵士のリアルではなく、迫力だ。倒れた瞬間を演じる必要もない。カメラがその瞬間を止めて瞬殺してくれるからだ。


待ち伏せ撮影で有名な写真がある。1964年のオリンピックポスター。
100mスタートライン。号砲と同時にダッシュする瞬間、クレジットは
広告写真家の天才、早崎治だ。この一瞬を撮るために100台のストロボを集め、10台ぐらいのカメラをセットし、ストロボをシンクロさせ、撮影する。一台一台にはカメラマンがついた。誰が担当したカメラかはわからない。当然これはディレクションした早崎治の写真だ。

翻って、ブロニーフィルムで撮られたと言われる、「崩れ落ちる兵士」
カメラの名前はわすれたが 、ローライではない。たぶんウエストレベルのカメラだ。ローアングルで撮るのに向いている。二人で同じものを撮るということは、写真の先輩であるキャパがポジションを決めた可能性がある。
そんなことどちらでもいいし実際ふたりで撮った写真は、
撮影ロバート・キャパでクレジットされるのだから撮影者のウソもない。
僕もアシスタント時代もそうだが、プロになってもアシスタントに手伝って撮ってもらうことがある。当然それは僕のクレジットがされる。

沢木の主張の中の肝に、プリントのアスペクト比がある。キャパの「崩れ落ちる兵士」のアスペクトが通常の2:3ではなく、4:3や4:5で撮られていると。いや35mmではなく、正方形のブロニー、1:1で撮ったのではないか。キャパはその時、35mmで撮っているの、撮ることができないと。だから、それらの写真は恋人ゲルダタローが撮ったのではという仮説。
キャパの十字架は、写真がFakeであるだけではなく、作者もゲルダじゃないかとの仮説。世界的発見。ちょうどゲルダの写真の研究者が、ロバート・キャパの写真のなかからゲルダの撮った写真を切り分け、整理していたので、その研究家は、「崩れ落ちる兵士」をゲルダが撮ったとは、ひとこともいっていないし、技量的にありえないという。
それでも沢木は、崩れ落ちる兵士の写真のアスペクト比にこだわった。

沢木は根本的に写真に無知なところがある。
それは、写真はトリミングされるということだ。この時代に限らず、多くの写真はプリントする時に、4:3、4:5の印画紙サイズに、印画紙を固定させるイーゼルの上でトリミングする。ちょっと写真をやったひとなら、すぐわかる。2:3のノートリミングにこだわっていたのは、ブレッソンぐらいだろうか。写真はあくまで原稿だ。印画紙や紙にプリントされる。35mmの横長の写真は使いづらい。多くの写真は、印刷されるときに、3:4などに使用される。このサイズが経ても横も安定したプロポーションだからだ。

もちろん、イーゼル上のトリミングは、すぐにわかる。印刷されたものや、は、デザインによるトリミングが前提だけれど、印画紙にプリントしたものは、トリミングしたかどうかは、わからない。性格に言えば、ネガの外枠が露出するようにプリントしなければ、ノートリミングかどうかはわからない。
後に多くの写真家が、プリントする時ノートリミングを主張するように、プリントにオリジナルの証である黒枠をつけるようになったのは、後のことである。

印画紙を固定、トリミングするイーゼル
ネガキャリア 様々なサイズのネガキャリがある。 

そして、日本ではあまり知られていないが、実はネガのトリミングの方法はもう一つある。それは引き伸ばし機にフィルムを装填する、ネガキャリアでのトリミングだ。イーゼルでトリミングが簡単なのに、ネガキャリあでする。そのプリントはまるで、ノートリミングの証拠写真のようなプリントが仕上がる。ライフが使用した「崩れ落ちる兵士」のオリジナルにも、その証拠である細い黒枠がついている。あたかもこの写真は、トリミングしていないことの証拠のように。
嘘のためではなく、多くの写真に黒枠がついているので、35㎜のアスペクトを印画紙や、編集デザインに適した、3:4にしていたことが本当だろう。

そして、何よりこのキャパの「崩れ落ちる兵士」が演習中に撮られたものだという、キャパの真実の証拠が、すでに発表されている。
答えだけ言えば、キャパの「崩れ落ちる兵士」の写真も、ほぼ同じ時間に撮られてもう一枚の「斃れる兵士」も、ロバート・キャパが撮った写真としてクレジットされた、その演習中の写真もどれもこれも、明確に中判で撮ったゲルダの写真以外すべて、キャパが撮った写真と言える。
それは、背景の山や、雲や、反射や、そのボケ感、遠近感などが、ぴたりとひとつに重なることだ。近くの風景は、少しのアングルで変わるが、何キロお先の遠景は、皆ほぼ同じ描写になる。

沢木耕太郎への反証は、キャパの写真が、死後70年たちパブリックドメインになったいま、研究用であれば引用することが可能になったので、写真を使って詳しく論じたいと思っている。

ながながと書いたが、カメラは真実を記録する道具ではない。
カメラはあくまで、カメラのレンズの前のものを、本物ように光学的、
化学的に記録するだけだ。
それは真実でも事実でもない。
写っているあるがままが写真である。

おまけ
下の写真のキモは、うまく撮れてないことだ。
大型カメラできちん撮るより、ラフにとったほうが、リアリティがある。
Iponeのほが、本物らしく撮れることがあるだろう。
完成していないほうが、本物らしい。
キャパのD-DAYの写真も同じ理屈で、歴史に残った。

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第一次大戦後、敗戦したドイツは経済が疲弊したが、憲法上はワイマール憲法によって民主的な政治体制になった。グラフ雑誌が活発になる。
そのうち自由からの逃走するように、ファシズムが台頭する。多くのジャーナリストがアメリカに逃れる。
タイムライフ社のLIFEが創刊されたのはそんな時代だ。
ドイツから渡ったユダヤ人が関わっていた。
民主主義が正義の時代。共産主義は脅威でも、
ひとまず敵はファシズムだった。
二次大戦が終わると敵は共産主義になった。
LIFEの手法はフォトエッセイだ。組み写真の方法論が構築された。そのため写真家よりそれを編集する側が力を持った。写真家のキャプションやデータを無視することさえあったとう。そういう流れで、マグナムフォトは、写真家の権利を守るために設立された。

ジャーナリズムとは、自分が善だと信じる体制側のプロパガンダだ!

Robert Capa最期の日
バックナンバー

このシリーズは、全部で20回以上続きます。
お読みになりたいかたは、マガジンで購入すると、今後もそのままの価格でご覧になれます。
このシリーズは、完成形ではありません。半公開をしながら、日々、調査したことを反映し、ロバートキャパの晩年、「失意の死」を検証することです。本当にキャパは、行かなくてよい戦争にゆき、死ななくてよい、汚点だったのでしょうか?そのため、キャパの自伝の、公式版でも非公式版でも日本滞在と、ベトナムでの死について深く調査はされていません。
キャパの死の土地は、1954年から僕が取材した2004年まで、市街地化したベトナムでも、唯一その場所だけが残っていましたが、僕が取材した半年後韓国の靴工場になってしまいました。キャパが最後に撮った場所は、今はもう存在していません。僕がその場所を特定することを待っていたかのような奇跡でもあります。

ロバート・キャパ最期の日 マガジン 

#1 「ロバ―ト・キャパ最期の日」をnoteで書く理由。
#2 「崩れ落ちる兵士」は、FAKEか? 無料

ロバート・キャパ最期の日
01 ロバートキャパ最期の日 インドシナで死んだ二人のカメラマン
02 キャパの死の場所が見つからない 
03 ロバート・キャパ日本に到着する
04 ロバート・キャパ東京滞在
05 キャパと熱海のブレファスト
06 キャパ日本滞在 焼津~関西旅行 生い立ち
07 1954年4月27日 カメラ毎日創刊パーティ
08 ロバート・キャパ、日本を発つ 4月29日~5月1日
09 キャパ日本滞在中 通訳をした金沢秀憲に会いにゆく
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このマガジンは、 ノンフィクション「ロバート・キャパ最期の日」の本文と本には載せられなかった写真など、きめ細かく紹介してゆきます。

戦争写真家ロバート・キャパは、1954年5月25日、午後3時ごろベトナム北部、紅河デルタの町タイビン郊外のタンネという場所で地雷を踏んで死…

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