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あいみょんの新曲『裸の心』から感じる現代性の拒否とニューミュージック

あいみょんの新曲「裸の心」に度肝を抜かれた。曲のすべての要素が、明らかに「2020年にリリースされた曲」とは思えないのである。


あいみょん「裸の心」の異質さ

ピアノとハーモニカ、アコースティックギターを基調としたアレンジとシンプルな構成のメロディ。片想いをする人の心情を少ない情報量で書き記した歌詞と、少しこぶしを効かせて言葉の母音まではっきりと聴き取れるような発声。極め付けは、間奏の郷愁を誘うようなハーモニカソロ。よく言えばシンプルでオーセンティック、ネガティヴなニュアンスを含めば現代性がなくフックがない楽曲である。

J-POPにおける現代性

この楽曲の「現代性のなさ」は他のアーティスト2020年にリリースされた他のアーティストのヒットソングと比べれば明らかだ。「裸の心」はTBS火曜10時枠のドラマ『家政婦のナギサさん』の主題歌であるが、前のクールの『恋は続くよどこまでも』の主題歌Official 髭男 dism「I LOVE…」と比べてみよう。

ホーンを用いたド派手なイントロから始まったと思えば、Aメロが始まるとトーンダウンしシンプルな3連譜のリズムトラックとシンセベースがだけになる。そこからトラックはめくるめく移り変わり、スウィートなシンセサイザーのループやゴスペルのクラップまで入り乱れる。一曲を通して息のつけない展開だ。

メロディにおいては、Aメロ、Bメロ、サビがそれぞれ際立った個性を放ち、恋愛の逡巡を目的語が欠けた「I Love」という言葉の繰り返しや凝ったレトリックを用いた歌詞も印象的だ。

こうしてみるとUSのヒップホップやR&Bのエッセンスを取り入れたアレンジや全編に渡って工夫が凝らされたメロディはまさに「今っぽい」ポップスであるし、アレンジや歌詞の情報量もリスナーを飽きさせない「フック」がある。

Official 髭男 dismに限らず、現在ビルボードチャートの上位にランクインするようなKing Gnuやヨルシカのようなアーティストは歌詞やメロディ展開が多く、海外の音楽シーンやボーカロイド音楽の文脈を引用することで現代性を楽曲に付与している。

しかし、あいみょんの「裸の心」には徹底してそれらの要素がない。まるで現代性を出来る限り拒否しているようにも思える。
そうしたときに思い出したのは、彼女のルーツと、かつてニューミュージックと呼ばれたアーティストたちだ。

ニューミュージック盛衰史

あいみょんはスピッツを神として崇め、父親の書斎から小沢健二の『LIFE』を借りて衝撃を受けた、いわゆる「90年代っ子」だ。しかしながら、音楽を興味を持つようになったきっかけとしてよく挙げるのは、意外にも吉田拓郎である。

吉田拓郎について説明するため、話を1970年代に移そう。
広島で熱狂的な人気を誇っていたフォークミュージシャンであった吉田は、1971年に「結婚しようよ」をヒットさせた。

彼がこの楽曲のなかで歌うヒッピー的な価値観やポップな言葉選び、そして言葉をメロディのなかに詰め込み崩しながら歌う作曲法や歌唱法は、当時のフォークソングや歌謡曲になかったものであった。吉田拓郎は、日本のポピュラーミュージックの新たな担い手として、一躍スターに躍り出た。その後も、荒井由実(のちの松任谷由実)や、井上陽水といった新しい価値観と西洋のポピュラーミュージックのスタイルを取り入れたミュージシャンが次々と登場し始めた。フォークソングにも歌謡曲にも属さない彼ら彼女らの音楽は、やがて「ニューミュージック」と形容されるようになる。新しいスタイルの音楽だから、「ニューミュージック」。シンプルな名称だ。

しかしながら、この新しいラベリングは言葉だけ独り歩きし、かぐや姫やアリス、松山千春といったアーティストにも適用されていく。彼らは1970年代以前のフォークのスタイルを踏襲しながら、恋愛や若者の生活を歌ったアーティストであった。言ってしまえば、新しいものではないのにニューミュージックと呼ばれてしまったのである。やがて、1990年代にJ-POPという用語が生まれると、ニューミュージックは昭和のフォークソングを指す言葉に生まれ変わってしまった。皮肉なものである。

話を2020年に戻すと、あいみょんの「裸の心」はそうしたニューミュージックの時代の音楽に通じるものがある。しかも、松山千春やかぐや姫のようなニューミュージックと。切なさを感じさせるピアノとアコースティックギターと、わかりやすい言葉で恋愛を歌った歌詞は、まさにフォークソングを踏襲したニューミュージックの定番である。そして間奏のハーモニカをよくよく聴き直すと、松山千春の「大空と大地の中で」を彷彿とさせる音色だ。

「裸の心」は、50年近く前のニューミュージックを、そのまま現代に復活させたものと言っても過言ではないのである。しかしながら、なぜ彼女はそんなことをしたのだろうか。

「J-POP職人」になったあいみょん

思えば、2016年にメジャーデビューして以降のあいみょんは「器用な」ミュージシャンだった。デビュー作「生きていたんだよな」は、アコースティックギターのストロークのなかで言葉を捲し立てるような曲でありながら、次のシングル「愛を伝えたいだとか」ではジャジーなコード進行とリズムトラックのなかで捻くれた愛情を歌う。かと思えば、ヒットシングル「君はロックを知らない」はスピッツを彷彿とさせるアレンジのJ-POPソングであり、4枚目の「満月の夜なら」にいたっては、ギターとドラムのループのうえでヒップホップのフロウのようなメロディを響かせる。

彼女はアレンジやメロディに、様々な時代やジャンルの要素を自在に取り入れることのできる稀有なアーティストであった。ソロシンガーでありながら一つのジャンルや方法論に縛られないからこそ、一度あいみょんを知れば、他の楽曲も聴きたくなるという作用が働いた。「君はロックを知らない」や「マリーゴールド」がヒットすると、他の楽曲もチャートを駆け上がっていったのはそのためである。
それは、あいみょんのけだるい声や、独特のセンスを持った言葉に確固たる個性と記名性があるからこそできる試みであった。

しかしながら、2018年の「マリーゴールド」のヒット以降、彼女に求められているのは、ジャンルを自在に横断する器用さではなく「キャッチーな言葉とJ-POP的なセンスを持ったわかりやすいメロディ」になっていく。

その証左として、2019年から2020年に発表されたシングル「ハルノヒ」や「空の青さを知る人よ」、「さよならの今日に」は「マリーゴールド」のようなわかりやすいメロディ展開と、キャッチーなサビ、ドラマチックなアレンジが採用されている。

「真夏の夜の匂いがする」も、チープなシンセサイザーとアコースティックギターを融合させたトラックのうえでささやくように歌う挑戦的なAメロから、いきなりJ-POP然としたサビに移り変わっていく。

この4曲はすべてドラマや映画、テレビ番組の主題歌として発表された楽曲だ。ここまで楽曲のテイストが似てしまう原因には、制作スタッフが楽曲をオーダーした時点で「マリーゴールドのようなサビを」とあいみょん側にオファーしていることが挙げられるのではないか(あくまでも推測だが)。

ニューミュージックに回帰したあいみょんはどこへ行く?

そう考えると「裸の心」はあいみょんの本当の意味での原点回帰のような楽曲として位置づければ納得がいく。ジャンルを横断するような楽曲でブレイクしたのち、J-POP的なものを求められれ答え続けた彼女は、自分のルーツであるニューミュージックに回帰した。

それはあえて、現代性とJ-POPにおけるあいみょん像を回避し、ミュージシャンとしてのスタンスを一度リセットするために必要な選択だったかもしれない。

そう考えてもう一度「裸の心」を聴いてみると、ただ懐かしいだけの曲ではなく、あいみょんのけだるい声の魅力が光った佳曲として聴き直すことができるだろう。

ルーツであるニューミュージックにたどり着き、今までの自己像をリセットしたあいみょんは、近いうちに本当の意味での「ニューミュージック」を生み出すのではないのだろうか。

(ボブ)

【第56週目のテーマは『どうしよっかな』でした】

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