見出し画像

人間、あるいは、人間味について


1.人間味とは

2019年の東京03の単独ライブのタイトルは、
「人間味」でした。

私は、この「人間味」という言葉が大好きです。

なぜならば、端から見ると善悪で判断されてしまう人間の性質が「人間味」という言葉により、「まぁそういうものだよね」という風に一度自然なものとして、フラットに捉えられる気がするからです。また、腹を立てることもなくなります。

言うなれば、相田みつを先生の「人間だもの」でしょうか。良いところも悪いところも、しっかりしているところもダラしないところも。全部ひっくるめて人間だなと捉えると、まぁ仕方ないよねと思えてきます。


2.人間味と動物


「人間味」といっても、人間をどのように捉えるか?は人それぞれだと思います。実際に、哲学・宗教・心理学、様々な学問・学者によって異なります。

ただし、私のスタンスとしては、進化心理学の概念が近く、もっというと、「人間は所詮動物である」という考えが根底にあります。もちろん、人それぞれなので、私は自分の考えを絶対視はしていません。

「人間は動物である」と書きましたが、要するに「人間は生存/生殖にまつわる自己利益の追求を最優先する生き物である」ということを思っています。ダーウィンの進化論に立脚すると、我々は動物です。

「人のための人」「他者に貢献せよ」という宗教や標語は多いですが、結局は自己利益の追求を剥き出しにすると、周囲に敵視される可能性があるために、そのカモフラージュとしての概念として生まれたか、人間は助け合いをする社会的動物であるので、そこでの生存確率を上げるために脳みそに快楽として組み込まれているサブ本能なのだと、私は考えています。

私自身、事業家として、「事業を通じて喜びを与えられる人々の数を増やす」という経営哲学を持っていますが、サブ本能の快楽系統を刺激している気がしますし、一方で、この姿勢を貫いて、一生懸命に仕事をすることが、最も事業成果をもたらし、実績・昇給という自己利益につながる合理的な心構えである、というメタかつドライな捉え方もしています。

とはいえ、どっちであろうとも、別に自分が短期的/長期的に幸福であれば、何でもよいと思ってますが。


3. 人間味と幻想


その上で、もう一つ私が考えているのは、人間(ホモ・サピエンス)は、物語という幻想を信じる生き物であるということです。

堅い本で言うと、サピエンス全史にもありましたし、柔い本で言うと、オードリー若林のナナメの夕暮れの「自分の中にファンタジーを作る」という言葉が表している概念だと思います。

人間、究極的には生きる意味はないはずです。
厨二病とかではなく、「生きて死んでいく」。
ただそれだけが、動物としての人間の人生です。私の一番好きな小説は宮本輝の「流転の海」なのですが、最終話で主人公が悟ったこともそうでした。生命体とはそういうものなのではと思います。

ただし、人間の場合は、「想像力」というミッキーさんが大好きな概念がありまして、これによって、「我々は○○である」という共同体幻想であったり、「私の生きる理由は○○」であるという個人幻想(信条)を生み出しています。これが人生のカラーリング剤であり、どうやら人間に活力をもたらすものであるようです。

この共同体幻想・個人幻想が、先ほどの自己利益をまぶすための他者利益として用いられるのが、私の思う「人間味」のひとつであります。

特に、ビジネスマンや宗教家など、共同体幻想によって組織を強固にするもの、同一性を図る組織体は、こういう原理で、組織を動かすものだと思います。世の中の人々が幸せになって、自分も幸せになるならば、幻想は、どんどん活用すべきものであると思います。

そして、幻想によって、人々に意味を与えることも大事な取り組みのひとつです。ザッカーバーグたんもいっていましたが、21世紀の人々が行うべきことのひとつだと思います。何もないなんて、そんなのは辛いので。


4.人間味と政治本能


しかし、どこまで行っても、
自己利益が本性であるのが人間です。
ゆえに、「他者のため」といいつつも、
自己利益の強化/自己不利益の回避を行う生き物です。

公民の教科書でトマス・ホッブズの「万人の万人に対する闘争」という概念がありましたが、人間の自然状態は自己利益の追求であり、ひとたび恐怖/危機を感じれば、他人を攻撃/排除し始めるのが、人間の性なのかもしれません。

私は、組織ではマネージャーをやり、並行して、新卒採用活動も行っていますが、「自己利益の追求/自己正当性を高める意思決定に駆られているのではないか?」と悩むことが度々あります。人間の本能は、そういうものだと思っているからです。いえ、一般論というか、私がそういう人間だからです。すいません。

だからこそ、そのバイアスに畏怖心を抱き、本当に組織のためか?自己正当性のために他人を使ってないか?を真剣に考えます。でも、それでもずっと怖いです。

自己利益/自己正当性を高めるとは何かというと、
要するに、自分のYESマンやコミュニケーションコストの低い人間だけで脇を固めたり、自分と似た性質を持つ人間を過大評価することです。この逆の人を登用/採用すると、自分の主張を反論されて立場が危うくなったり、違う性質の人なので、自分が評価されないのでは?と思ったりしてしまう訳です。

この力学が「政治的」「派閥的」とされる状態を生むわけですが、(私の思う)人間の本能に従うのであれば、とても自然なことだと思います。


ただし、人間はいつなんどきも超賢いなんてことはなく、正しい意思決定をし続けることは、基本的には難しいです。

ライフネットの出口さんがいうように、「人間は全員ぼちぼち」です。
そこそこ賢くて、そこそこ愚かです。

だからこそ、自分が間違っている時に、「間違っている!」と指摘してくれる人間を置くことが、組織を正しい方向に導いていくことに繋がると思います。これが、名著『貞観政要』の主張のひとつです。

耳の痛いことにも耐えて、なんとしてでも事業を正しい方向に持って行くぞ!という姿勢が必要なんでしょう。自然状態に反する訳なので、やりにくさはありますけど。

5.まとめ:人間味と向き合う

いろいろ偉そうなことを言いましたが、今回のテーマは人間味です。自分の心に潜む人間味と向き合い、他人の行動に現れる人間味を一度自然なものと許した上で、でも、事業ってこうじゃんと導いていく。そういう姿勢が大事なんだろうなーと、なんとなく思います。あと、色々と人間論を展開しましたが、究極的にはよくわからないですし、簡単に括れないです。だからこそ、面白い訳ですけど。


ちなみに、「人間味」という概念を覚えると、相手に粗暴なことをいわれても、「まぁ人間だしな。イライラすることもあるわな」と思えて、許せるようになってきます。

ただ、これを繰り返し、すべての感情を失っていき、オートマータになり、それこそ人間味がなくなってくるのかもしれません。

おわり

※カバー画像が横浜中華街になってしまっているの変えたいけど変えられない。