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ある地方政治家の死

2021年3月11日、東日本大震災から10年となるこの日、元福岡市長の山崎広太郎さんが脳内出血で亡くなりました。79歳でした。少し思うところがあり、彼の歩みを振り返りながら、雑文を少し。

日本統治下の朝鮮半島で1941年に生まれた山崎さんは、戦後、島根県出雲の父の実家に引き揚げ。その後、福岡に転居し、修猷館高校から九州大学法学部という、地元では定番の秀才コース。

1971年、福岡市議会議員となり、以後5期19年務めました。1991年の福岡県知事選には敗れたものの、1993年の日本新党ブームに乗って、衆議院議員選挙で地元トップ当選。同党同期に、小池百合子・茂木敏充・枝野幸男・野田佳彦・前原誠司・河村たかし・中田宏らがいます(敬称略)。

1998年、現職を破り、福岡市長選に当選。2期務めました。それまでの桑原市長が推し進めてきた開発行政からの転換を図りましたが、有名なのは2016年の夏季五輪誘致へ立候補をしたこと。東京と一騎打ちで敗れましたが、いまだ不透明な東京五輪の惨状を見るにつけ、落選して結果オーライ。

市議会議員時代の1981年には『水は関門海峡を渡れないか』という著書も出しています。1977年の福岡大渇水を受けての大胆な提言だったと思いますが、今や覚えている人も少ないかも知れません。

山崎さんを取材、個人的にも親交があったという、地元西日本新聞の三宅大介さんの追悼記事には、山崎さんの人柄がよくあらわれていると思いましたので、抜粋。

市長は「取材は拒まない、うそはつかない」。漏らせないなら「(イエスかノーか)言えない」と答える。政治家の多くは都合が悪いと顔を見せない。山崎氏はルールを守った。どんなに厳しく書いた翌日でも、黙って家に入れてくれた。


16年五輪招致で、福岡市が東京都と争った06年、結果発表の直前、下馬評で優位の石原慎太郎知事(当時)の指は震えていた。対して山崎氏は泰然自若。後で話すと「あと一歩やったな」と後ろ向きな言葉は皆無。「(地方の)意地は示せたやろ?」。

地元では「広太郎さん」と呼ばれて親しまれた。人付き合いの良さと懐の広さで、選挙も強かった。是々非々を貫かなければ、地元紙として信頼は得られない。筆を鈍らせずに済む人と巡り合い、私は幸せだった。笑うとますます目が細くなる丸顔を思い浮かべ、涙が止まらない。

山崎さんの実家は、博多座近くの出雲蕎麦「加辺屋 川端本店」。昔から時折、足を運ぶ店ですが、今度博多に行ったら、蕎麦と日本酒で、彼の在りし日を偲ぶことにしよう。

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