祖父の死から考えた、「生きる」とは
祖父が去る8月に亡くなった。95歳だった。
最後まで頭は明瞭に、病院より自宅で過ごすことを希望し、複数のヘルパーさんに支えられた一人暮らしの中、天寿を全うした。
父から「どうやらじいさんが家で死んだらしくて、今警察が家に来ている」との一報を受けた朝。父の淡々とした「死んだ」という言葉が言葉として頭に入らなかった。「死んだ」=「この世に存在していない」ということがこの一言で変わってしまうことを感じた瞬間だった。
「会いに行けばよかった。」まっさきに浮かんだのが、祖父への後悔の念。会うと、「俺はもう死ぬ、だめだ」とぼやきが始まり、励ましても次々と繰り出される悲観的な感情を受け止めるのが苦しくて、祖父から距離を置いてしまっている自分がいた。
耳も遠く、祖父から電話が来てもほぼ怒鳴り声に近いくらいの大声で話さないとコミュニケーションもままならない。仕事・育児で忙しい最中に電話が来るとイライラしてしまって、電話後に後悔する、ということも多々あった。
コロナ騒動が2020年に始まり、移動も自粛していたことをよい言い訳に長いこと会いに行かなかった。父からも「じいさんが弱っているから電話してあげて」と言われたが、すべて生返事。去年の年末に我が家で預かっていた実家の犬を夫が父に戻しに行く際に祖父の家に立ち寄った時も弱っていそうだった、と聞いていたのに、私は特に祖父への連絡はしなかった。
今年2月、祖父が風呂で転び骨折で入院した、と父から連絡が来た。コロナで病院にも面会は難しいだろうから、と祖父には連絡をしなかった。
7月、父から愚痴の電話が来た。「じいさんがわがままで大変だ。リハビリの病院から家に帰りたい、と言っている」
そして、住み慣れた自宅での生活再開。1か月もたたないうちに祖父は亡くなった。
警察での検視が終わり、祖父が生前から指定していた葬儀社で遺体と対面。心臓が止まり、亡くなった直後にベッドから落ちてしまったので、頭から顔上半分が赤黒くなっていて衝撃を受けた。なかなか見慣れない。言葉で聞いていた「祖父が死んだ」という事実を目前にし、本当に死んだのだ、と思う一方で、まだ信じられないような、ふわふわとした気持ち。口が開いたままになっていて、2年前に施設で亡くなった祖母も亡くなった直後は同じく口が開いていたな、と思い出した。
葬儀が4日後に決まり、葬儀の準備に取り掛かった。出席者は父、母の妹家族、私の家族のみ。直葬を望む祖父だったので、できるだけシンプルにしたい。
遺影の写真は以前私が生後半年の長女を連れて祖父に会いに行った時の珍しくにこやかな笑顔の写真を選択。夫が動画から切り出し、祖母の遺影作成時にもお世話になった写真屋さんに加工してもらう。そういえば祖父は赤ちゃんや子どもが大好きだったなぁと懐かしく思い出す。ネット注文でフレームを購入し、遺影の完成。
「俺の葬式の時には"別れの曲"(ショパン)を流してくれ」と耳にたこができるくらい言われていたことを思い出す。祖父が空から葬儀を眺めている時に届けたい曲は何だろうと自分に問いかけながら曲選び。私の好きな"悲愴"(ベートーヴェン)は2曲目。祖父が買ってくれたピアノで何度も弾いた。
「千と千尋の神隠し」のサウンドトラックの中からは"ふたたび"と"いつも何度でも"を。私が本が大好きに育ったのは、祖父の家に遊びに行った夜は本を読み聞かせしてくれていたから。心に覚えているから、いつかまたどこかで笑顔で会えたらいいなという願いを込めて。祖父の動かなくなった身体を前にして、約1世紀の間生きていた重みと、それがゼロになった状態を感じた。今の自分の心境に一番合致していると思った。
サラ・ヴォーンの"A Lover's Concerto"。私たちの結婚式でも流した曲。結婚式が大雪に見舞われ、祖父は帰宅後意識を失い、夢の中で綺麗な光を見たそうだ。今は亡き祖母が必死に声掛けをして、何とか息を吹き返したということで結婚式とセットで思い出す印象深い曲だ。
最後は"Amazing Grace"。祖父は私にはよい祖父であったけれども、周りを振り回した人間だった。祖母は祖父の不貞、暴力とその記憶に晩年まで苦しんでいた。そのうち認知症を発症し、祖父の日記をビリビリに破ったり、過去の怨念を晴らすように祖父に暴力をふるうようになり、施設に入り、安らかな最期を迎えた。母は祖父の希死念慮に振り回され、祖父母宅での寝泊まりと自宅の往復の最中、脳梗塞に倒れ、現在も意識混濁状態でずっと入院している。以降、父が義理の父である祖父の世話を担当していた。わがままな祖父のケアは大変だったと思う。渦中には憎しみ、苦しみ、辛さも生まれるし、私のようにその辛さに向き合わず逃げてしまうこともある。しかし、こうして一人の命が終わるプロセスを見て、改めて生きるとは素晴らしいことである、と思ったし、祖父にもそれを強く伝えたかった。
葬儀の日は祖父も化粧で綺麗にしてもらい、まるで眠っているかのよう。祖父の顔を見ていると、小さい頃をいっぱい思い出した。初孫誕生に歓喜のあまり、「おちびこちゃん」「世界一ちゃん」とあだ名でずっと私を呼んでくれていたこと。祖父から鶴亀算を習い、できなくて泣いたこと。一緒に行ったフランス、グアム。スカイツリー近くで天丼を食べ、銀座ライオンでビールを飲んだこと。大学に行きたかった、と勉強する気持ちを忘れず、午前中は必ず自室で勉強していた姿。
葬儀の最後には、大好きなビールを綿棒に含ませて唇へ塗り、大好きなえび天と、いつもかじりながら食べていた黒飴の袋、"別れの曲"の楽譜、いつでも海外旅行に行けるように世界地図を棺に納めた。
葬儀後、祖父の書斎へ入った。机には携帯電話が置いてあり、中を見ると、登録されていたのは母、母の妹とその息子のみ。私の名前は登録されていなかったことに衝撃を受けた。何度も携帯から電話をもらっていたのに。初孫で一番かわいがられているという自負、驕りがあったことに少し恥ずかしく思った。できれば、名前を記録していてほしかった。無理矢理にでも登録してもらえばよかった、など後になって思う。
ソファには、最後に読んだと思われる8月3日の新聞と"これでおしまい"(篠田桃紅)という本。107歳の方が残した人生の言葉、ということで、老いること、死ぬことについて最後まで悩んでいた祖父らしいセレクションだ。
祖父の葬儀の準備の時間は、祖父との思い出に向き合いながらの弔いの時間であった。晩年の祖父との交流を意図的に避けてしまったことに対する後悔の念に苛まれる私に対して、夫が共感してくれたことが救いであった。祖父との一番いい思い出を心にとめて、これからの人生をありのままに、時には冒険心を忘れずに過ごしていきたい。
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