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第145講 共産主義陣営の変容

145-1 ソ連の「雪解け」と平和共存政策

「雪解け」の時代

 スターリン死後のソ連社会では解放感がうまれ、対外的にも国際協調路線がとられたが、こうした風潮はスターリン時代を生きたエレンブルクの小説にちなんで「1:雪解け」と呼ばれた。

 1953年3月 2:スターリン死去ののち、マレンコフが共産党第一書記と閣僚会議議長(首相)に就任したが55年に失脚し、3:フルシチョフが共産党第一書記、ブルガーニンが閣僚会議議長(首相)とった。

*共産党第一書記は「党」のトップ、閣僚会議議長は「国家」のトップ。共産主義国家(一党独裁国家)では「国家の代表」より「党の代表」の方が最高権力者である。ソ連はすでにないので、同じような例である中華人民共和国を見ると、2023年現在、中国共産党のトップが「党総書記」で、中華人民共和国のトップが「国家主席」である。「党総書記」の方が、「国家主席」よりも上に立つ存在だが、現在材は習近平が「党総書記」と「国家主席」を兼務している。

 スターリンの死は、板門店での4:朝鮮休戦協定(1953)、イランの5:モサデグ首相への援助停止(1953)など、ソ連の対外政策を強硬路線から国際協調路線へと転換させた。

*スターリンの死とソ連の外交政策の軟化が、ソ連をあてにしていた北朝鮮の金日成とイランのモサデグにとって、梯子を外された形となった。金日成にとっては、板門店での休戦協定を、石油国有化で米英を敵に回していたモサデグにとっては失脚を意味した。同年、アメリカでトルーマン民主党政権からアイゼンハワー共和党政権への20年ぶりの政権交代が起きて降り、米ソ両国のトップの交代が重なって、1953年は国際政治において重要な転換点となった。

 1955年、ソ連は6:ユーゴスラヴィアと和解し、両国間で主権・独立・領土不可侵・平等の諸原則を確認した。

*ユーゴスラヴィア(指導者ティトー)は1948年にコミンフォルムを除名され、ソ連との対立を深めていた。

 このような中で、1954年、合衆国(アイゼンハワー政権)、ブリテン(チャーチル政権)、フランス(第四共和政)は、パリ協定を結び、西ドイツの主権回復と再軍備、NATO加盟を承認した。

 このパリ協定に基づいて、1955年5月、西ドイツは再軍備を認められ、12:NATO加盟(西独)を実現した。これをきっかけにソ連は東欧諸国との集団防衛条約である13:東ヨーロッパ相互援助条約を結び、14:ワルシャワ条約機構を成立させた。

 このような両陣営の緊張の高まりを受けて、1955年7月、米・ソ・英・仏の首脳がスイスで7:ジュネーヴ四巨頭会議を行った。四巨頭は、アメリカ大統領アイゼンハワー、ソ連首相ブルガーニン(第一書記フルシチョフも参加)、英首相8:イーデン(保守党、チャーチルの後継)、仏首相フォール。両自営の平和共存を確認したものの、具体的な成果はなかった。

*主だった成果はなかったが、この場合は、この四者で会うこと自体に意味があったのである。また、同1955年4月にアジア=アフリカ会議が開かれ「平和十原則」が発表されており、ジュネーヴ四巨頭会談はこれに対抗する意図があった。

*米ソ英首脳の会談は、ポツダム会談以来10年ぶりであった。日本にとっては無視できない大きな影響があった。
 外交面では、ソ連の西側に対する姿勢を軟化させ、翌56年の日ソ中立条約への道筋が開かれ、それが同56年の日本の国際連合加盟への道筋を開いた。東西ドイツの国際連合が1973年、韓国と北朝鮮の国際連合加盟が1991年までかかったことを思うと、日本が1956年時点で国際連合に加盟できた意義は大きいと言えよう。
 内政面では、間接的にではあるが、社会党の再統一(1955年10月)と保守合同(1955年11月)を促し、いわゆる55年体制を生み出す遠因となった。これは、西ドイツのNATO加盟とワルシャワ条約機構成立、そしてジュネーヴ四巨頭会談を受けて冷戦体制が硬直化する中で、ソ連は日本における自らのエージェントである社会主義政党の一本化と安定を望み、これに対して合衆国も日本における自らのエージェントである保守政党の一本化と安定を望んだからである。55年体制とは「冷たい戦争の写し絵」「米ソの代理勢力同士の対峙」であり、ジュネーヴ四巨頭会談が両自営の平和共存を確認したために、米ソが冷戦の長期化を見越し、日本におけるそれぞれの安定したエージェントを欲した。

対外政策の転換

 こうした風潮を受けて、ソ連は西ドイツ(1955年)、日本(1956年)と国交を回復した。

 5月、9:オーストリア国家条約が結ばれ、米英仏ソの四か国による分割占領が終わった。オーストリアは永世中立国となった。

 55年末、イタリア、スペイン、ポルトガルの国際連合加盟が実現した(日本は56年)。

*1955年には、東側のハンガリー、ルーマニア、アルバニア、ブルガリアなどが国際連合に加盟を認められた。西側からは、イタリア、スペイン、ポルトガルなどが加盟した。旧枢軸国のイタリア、フランコの独裁体制下、サラザールの独裁体制下にあるポルトガルまで加盟したのだから、もはや何でもありである。こうしたドタバタのタイミングを狙って、日本も56年に加盟にこぎつけている。

 ソ連は日本と1956年10:日ソ共同宣言を締結し、11:日本の国際連合加盟が実現した。

社会主義陣営の動揺

 1956年2月、ソ連共産党書記長フルシチョフが、ソ連共産党第20回大会で15:スターリン批判を行い、内外に衝撃を与えた。

 フルシチョフは、16:平和共存政策を打ち出し、同56年に17:コミンフォルムを解散した。

 この影響で、6月ポーランドのポズナニで、労働者が待遇改善を、学生が民主化を要求する18:ポーランド反政府反ソ暴動(ポズナニ暴動)がおきたが、ソ連の介入を恐れた労働党の19:ゴムウカによって鎮圧された。

 同年10月、ハンガリーの首都ブダペストでも20:ハンガリー反ソ暴動がおきた。ソ連軍が出動してデモを鎮圧し、首相の21:ナジ=イムレは責任を問われて失脚、処刑された。ソ連によるハンガリー弾圧は、同時期におきたスエズ戦争に世界の注目が集まったこともあり、事実上、黙認された。

*ソ連の衛星国と言われる東側諸国のうち、19世紀からロシア帝国の支援を受けてきたブルガリアが比較的ソ連に従順なのに対し、20世紀初頭までオーストリア=ハンガリー帝国やプロイセンの統治下にありロシアの支配を受けて来なかったポーランドやハンガリー、チェコスロヴァキアでは、反ロシア、反ソ連の風潮が強い。このため、これらの国々では、冷戦期にポーランド反政府反ソ暴動(1956)、ハンガリー反ソ暴動(1956)プラハの春事件(1968)などが起きた。また、ルーマニアはブルガリアと同じく19世紀以来ロシア帝国の支援を受けてきた立場だが、ロシア帝国やソ連との間にはベッサラビア(現モルドヴァ共和国)をめぐる対立を抱え、言語的にもルーマニアはスラヴ語系ではなくロマンス語系であることから、ロシアやソ連に対しては元来冷ややかな態度である。このためチャウシェスクの時代になると、やんわりとソ連と距離を置くようになる。

145-2 核廃絶運動と核ミサイルの開発


核廃絶運動


 1950年代には、核兵器の拡散と戦争の脅威に対し、平和を望む国際世論が高まった。

 1954年、合衆国がビキニ環礁で行った1:ビキニ水爆実験で、日本の漁船が放射能汚染を受けた2:第五福竜丸事件が起きると、原水爆禁止を求める運動が世界各地に広がり、翌55年に広島で3:原水爆禁止世界大会が、長崎で平和大会が開催された。

 1955年に出された4:ラッセル=アインシュタイン宣言(Russell-Einstein Manifesto)は、ブリテン(ウェールズ出身)の哲学者バートランド・ラッセルと、ドイツ出身の物理学者アインシュタインが中心となり、11名の科学者によって出され、核兵器の廃絶と科学技術の平和利用を訴えた。日本の湯川秀樹も署名した。これを受けて1957年7月、カナダ・ノバスコシア州パグウォッシュにおいて5:パグウォッシュ会議が開かれ、科学者たちが核兵器の廃絶を訴えた。

核ミサイル開発競争

 こうした中、1957年にソ連が人工衛星6:スプートニク1号の打ち上げに成功した「スプートニク=ショック」を受けて、アメリカも翌年、人工衛星の開発に成功し、これ以降両国間で7:大陸間弾道ミサイルの開発競争がはじまった。

 1959年9月、8:フルシチョフ訪米が実現し、アイゼンハワー大統領キャンプ=デーヴィッド会談を行い、紛争の平和的解決に合意したが、1960年5月に起きたU2型機撃墜事件で米ソの関係は冷え込んだ。

 1962年、ソ連がキューバにミサイル基地建設を計画し弾道ミサイルを運び込むと、合衆国との間で緊張が高まった。これを9:キューバ危機という(後述)。

 キューバ危機の後、1963年、米・ソ・英は、地下核実験を除く大気圏内外と水中で核実験を禁じた10:部分的核実験禁止条約に調印し、さらに1968年には他国も交えて核保有国(五大国)をこれ以上増やさないことを取り決めた11:核拡散防止条約(NPT)(70年発効)を調印した。*フランスと中華人民共和国は92年に加盟したが、北朝鮮は95年に脱退して核を開発、98年に核実験を実施したインドとパキスタン、核を保有していると考えられているイスラエルは加盟していない。


45-3 中華人民共和国の変容


建国当初の中華人民共和国

 
 1949年に成立した中華人民共和国では、毛沢東の指導の下、共産化がすすめられた。

 朝鮮戦争が始まると、資本主義勢力の一掃が叫ばれ、1951年、共産党の主導で資本主義の悪弊をただす「1:三反五反運動」がはじまった。*三反とは、中央政府の「汚職」「浪費」「官僚主義」の排除を、五反とは、「贈賄」「脱税」「国家資材の窃盗」「手抜きや材料のごまかし」「経済情報の盗み取り」の排除をいう。

*三反五反運動が何なのかよくわからないという生徒の声をよく聞く。ざっくりいうと、共産主義がわが、中華人民共和国そのものや共産党の支配に反対する資本主義者を炙り出して根絶やしにするための口実である。既得権者や政敵を追い落とすための口実でもあった。同時期に合衆国では共産主義者を炙り出す「赤狩り」が狂信的に行われた。

 1950年から1952にかけて地主の土地を農民に分配する2:土地改革が強行された。

*朝鮮戦争の最中に、「資本主義は敵」という風潮を利用して強行した。

 1953年には重工業化による軍需産業の振興と農業の集団化をめざす3:第一次五ヵ年計画(1953-57)が開始され、本格的な計画経済路線に舵を切った。これはソ連からの技術者の派遣や中国技術者の訓練など、ソ連に依存して行われた(4:向ソ一辺倒)。集団化により、農民の土地保有権は失われた。

 さらに1954年には5:中華人民共和国憲法が採択され、社会主義への過渡期にある人民民主主義国家と位置づけ、人民政治協商会議にかわって全国人民代表大会(全人代)が国家の最高機関とされた。

*東側陣営、共産主義陣営とされる中国だが、ソ連と蜜月だった時期は意外に短い。中国は、ロシアとは比べ物にならない歴史の蓄積があり、2000年近くにわたって周辺国を朝貢させてきた大国の自負から、そもそもロシアを大国だと思っていない節がある。これは21世紀、合衆国に対してもそうであろう。
 余談になるが、現在のプーチンと習近平の関係が、それぞれ打算はあってのことだろうが、歴史上の中露関係のもっとも蜜月な例のではないだろうか。

中ソ対立


 1956年のスターリン批判を機に、中華人民共和国とソ連の間に6:中ソ論争がおこった。はじめは伏せられていたが、1963年には公開論争となった。

 毛沢東は1958年「7:大躍進」と称する計画経済による農工業の発展計画(第二次五ヵ年計画)を発動し、農村を8:人民公社(「コミューン」の中国語訳)に再編し、集団生産活動と行政・教育活動の一体化をすすめたが、生産意欲の低下と無謀な計画により多数の餓死者を出した。失敗の責任を取り、1959年、毛沢東は国家主席を退き、9:劉少奇が国家主席となった。*党主席は毛沢東のまま。

*人民公社は、スターリンが作ったソ連のコルホーズ(集団農場)を手本としていたが、毛沢東はそれが最善手だと考えている(ふりをしている?)のに、スターリン批判を行ったフルシチョフらは悪手であると思っている。

 1960年、ソ連は一方的に10:中ソ技術協定破棄を通告し、中華人民共和国に派遣していた技術者を引き上げたので、中国経済は大打撃を受けた。

 両国の対立は、1969年ウスリー川中洲の珍宝島(ダマンスキー島)をめぐる軍事衝突(11:中ソ国境紛争)で頂点に達した。

 中ソ対で、他の社会主義国はソ連を支持したが、12:アルバニアは中華人民共和国を支持した。1971年中華民国を国連から追放し中華人民共和国を加盟させる13:中国の国連代表権交代を実現した国連総会の決議は、アルバニアによって提出されたため、アルバニア決議と呼ばれる。*可決されたのは合衆国ニクソン共和党政権が中華人民共和国に接近したため(後述)。

*アルバニアは、古代イリュリア人の末裔とされ、ローマ帝国に統治されローマ市民権を共有した歴史を持っている。イタリアのムッソリーニに併合されたならまだしも(それも嫌だったのに)、スラヴ人系のロシアやソ連に頭を下げるいわれはないというのが本音だろう。

*これらを推進したアルバニアの指導者はホジャ。受験に出るアルバニア人としては他に、19世紀エジプトを近代化し自立させたムハンマド=アリーがいる。

チベット紛争 

 
 中華人民共和国は、中華民国を受け継ぎ、清朝の領域を領土としたため、周辺民族の統治という難題に直面した。なかでも、チベットをめぐる問題は、現在まで尾を引く問題となった。

 中華人民共和国は、周辺民族の統治に自治区のしくみを採用し、14:内モンゴル自治区(1947年成立)に続き、15:新疆ウイグル自治区(1955年成立)を成立させ、さらに1956年16:チベット自治区準備委員会を発足させたが、漢民族・共産党主導の委員会にチベット人は不満を高めた。

 1959年「大躍進」の失敗と毛沢東の求心力低下という北京政府の混乱に乗じ、チベットの中心都市ラサで、中華人民共和国と共産党の支配に対する17:チベット反乱がおきた。人民解放軍はこれを武力で鎮圧し、チベット仏教の指導者18:ダライ=ラマ14世はインドに亡命した。

 1962年チベット自治区とインドの境界をめぐる19:中印国境紛争(1959-62)がおき、62年には大規模な武力衝突に発展した。*インドのネルーがソ連に接近し、非同盟諸国会議の成果が揺らいだ。チベットは、1965年正式に20:チベット自治区となった。

調整政策と核開発

 ソ連と距離をおいた中華人民共和国では、国家主席となった21:劉少奇 (任1959~68)や 22:鄧小平が、市場経済のしくみを取り入れる経済調整政策をとり、国力の回復につとめた。一方、軍事力の強化がすすめられ、1964年、23:核実験 を成功させ、5番目の核保有国となった。*ただし、共産主義一党独裁のもとでは党主席(毛沢東)が国家主席よりも上位にあり、最高権力者として君臨した。

*「毛沢東の失脚」というが、実際には失脚したわけではない。共産主義やナチス=ドイツのような一党独裁国家では、「国家」の上に「党」が位置しているので、「国家」のトップよりも、「党」のトップの方が権力を持っている。毛沢東は、1959年に「国家主席」を退いたが、「党主席」は退いていない。したがって、正確にいうと、中華人民共和国の指導者としては失脚したが、中国共産党の指導者であり続けたということになる。




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