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母親とは「シャボン玉」のようなものだと思う

母親は「接触面」に存在する

あなたは、じぶんの母親のことについて、どれだけ知っているだろうか。

わたしは恥ずかしながら、一個人としての母親のことをほとんど知らない。

母のことで知っていること、覚えていることといえば、母が「母親」という役割を通してどうわたしに接してきたか、がほとんどだ。

こどもにとって、母親という存在は、一個人としての「中身」よりも、子どもに触れ合い接する「接触面」の方がずっと重要なのだと思う。

だからこどもにとっての母親の存在価値とは、中身に価値のある「水晶玉」のようなものではなく、接触面(膜)に価値のある「シャボン玉」のようなものだと思う。

家族のなかで溶けてゆく「自己」

家族のなかで「母親」として過ごしている時間は、「自己」と向き合う時間も余裕もほとんどない。

「滅私奉公」。「自己犠牲」。

少し大袈裟かもしれないが、子そだての日々を一言で表すなら、こんな言葉が近いと思う。

じぶんのことは後回しで、時には私利私欲を捨て、良くも悪くも家族に翻弄される日々。赤ちゃんや幼い子どもの前では、じぶんの時間も計画も思考も感情も、簡単に押し流されていってしまう。

「母親」という立場や役割ばかりで過ごしていると、わたしの一個人としての「自己」や「個性」のようなものが消えてなくなりそうで不安定な気持ちになる時がある。

「絶対的な個性」が輝く時代の「映えない」母親

母親として家族にコミットする暮らしは、とにかく「映えない」。

普通の人が「SNS映え」した個性を発揮し、強力な影響力やチャンスを掴める現代社会。「映えない」母親の暮らしをしていると、時に孤独感や焦りを感じる。

「絶対的」で「強力」な個性を発揮することで、個人の「中身」に磨きをかけて副業したり、SNS上で「個性」をアピールしてたくさんの「いいね」を集める人がキラキラ輝いているように見える。

小さいころから「絶対的な個性」を見つけ、伸ばすことを求められてきたことも、母親としての焦りや不安を増幅していると思う。

自分の中の輝く「原石」を見つけ、伸ばすこと。それが、よい大学、よい仕事、よい収入、よい未来、つまり「自由」を手に入れられる絶対条件だと信じていた。

「絶対的な個性」と「相対的な個性」

「個性」には2種類ある。
「絶対的な個性」と「相対的な個性」だ。

「じぶんらしく働く」とか、SNS上の「自己表現」「キャラ設定」なんかは「絶対的な個性」だ。

一方で、「相対的な個性」とは、身を置く「環境」や周囲の「人」などによって変わる。

「絶対的な個性」は、環境によって変わらない。一方向からの「発信」「主張」で完結する個性だ。

反対に「相対的な個性」は、環境や状況によって変化する。双方向の柔軟なコミュニケーションから生まれ、変化していくのが「相対的な個性」だ。

「柔らかい」コミュニケーションを取り戻す

人間は、「人間」という言葉通り、人と人の間を生きる生き物だ。人の間には、コミュニケーションが存在する。

本来、「個性」とは、手が触れる身近な人たちとの双方向の柔らかいコミュニケーションのなかから生まれ、変化するはずなのだ。

SNSで個性を「魅せる」ことに慣れすぎた私たちは、「絶対的な個性」を過大評価しすぎていると思う。わたし自身、「SNS社会」「女性活躍社会」のなかで生まれ育つうちに、「絶対的な個性」を過信し、固執しすぎていたのだと気づいた。

一貫した自分などいない。誰とどう関わるかで自分は簡単に変化する。

デイヴィッド・ブルックス、 「あなたの人生の科学(上)誕生・成長・出会い」、 ハヤカワ文庫NF


わたしは、もう一度、社会の最小単位である「家族」のもとで、母親として、この「柔らかい」コミュニケーションを取り戻したいと思う。

こどもが思い出として記憶するわたし(母親)は、わたしの内面にある絶対的な「自我」ではなく、「シャボン玉」のようにこどもと触れ合う「接触面」に存在する。

シャボン玉のように、風向きが変わるたび、しなやかに、変幻自在に、カタチを変え、柔らかく触れ、優しく包み込みたいと思う。

ふわりふわりと漂って行き着く先には。

「SNS映え」には程遠いかもしれないが、本質的で根源的な何かにたどり着くと信じて。

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