見出し画像

episode5 一度目の結婚と離婚の話

自己紹介エピソードも5つ目。
今回はやや重量感のあるエピソードですが、お付き合いいただけたら嬉しいです。
ちなみに二度目の結婚の予定は全くありません(≧∀≦)

考えが甘かった結婚への道


元夫とは19歳から付き合いを始めて、23歳で結婚しました。
知り合う前の元夫、中高生の頃は少々ヤンチャしていたらしいです。私はフツーに真面目な学生でしたので真逆なタイプですね。
全く結婚願望のなかった人でしたが、私と交際後間もなく、結婚したいと口にしていました。
お義母さんも結婚前からよくしてくれて、なかなか結婚を決めない二人にヤキモキしていました。
子供を授かった事がきっかけとなり入籍しました。

女性って割と子供がお腹にできた時から母性が芽生えるし、気持ちの上でのシフトチェンジもスムーズに出来る人が多いと思います。
ただ男性の場合はそう簡単ではありません。
まして元夫はまだ当時24歳。恐らく覚悟も出来ていなかったのだと思います。

そして私も、結婚に対して深く考えてもいなかったし、なんとかなると楽観的でした。
社会の情勢もそんな気持ちを後押ししていたかもしれません。
世はバブル期。正しくは崩壊に向かっていた頃。でも若かった私たちはそのことに気付きもしませんでした。

結婚した翌年、長男を出産しました。
元夫はフリーの某職アシスタントとして働いていたのですが、バブル崩壊で仕事が激減していきました。その頃はひどい時は家に入れる月額は数万円(それと同額近く自分の懐に入れていた)という状況…
私の貯金を崩したり、義母から援助を受けたりして生活していました。
月にこれだけ経費がかかるのだと紙に書いて説明し、仕事がないなら他の仕事をするなどの策を講じて欲しいと話しましたが解決せず。

彼は一人で自立した生活をした事がない人でした。
親に反抗して家を出ても、常に友達の家に転がり込んでいたり、私が一人暮らしをしたら当然私のところに来ました。
今思えば私もいけなかったのですが、家賃や光熱費の折半を求めたことはなかったんです。
収入が安定していない上にパチンコで負けて私に借金をした事も。一度の額は少額でもチリも積もればなんとやら、です。
なんでこんな人と一緒になったんだと思いますよねぇ(-。-; 若気の至りってやつです。

義父は安定の公務員。義母は専業主婦。一人息子にはお小遣いにも苦労させなかったと思います。
小言が多く口うるさかった義母を疎ましく思っていた元夫ですが、私から見ると息子に甘い親とそれに甘えている子供という印象でした。
とにかく彼はお金に苦労をした事がなかったのです。

遠い離婚への道のり


もうお分かりかと思いますが、離婚の原因の一つは金銭的なことです。
それを許してきた私も悪いところがあったと思ってはいます。

ただそうしてきてしまった理由が、もう一つの大きな離婚原因でもあります。
今で言う「モラハラ夫」でした。当時はそんな言葉はなく、広くDVという括りで「言葉の暴力」でした。
手を挙げなければいいという思考の持ち主でした。ですから肉体的な暴力はありません。
その代わり暴言が酷かった。怒りが収まるまで1時間でも大きな声でひどい言葉を浴びせます。時には物に当たります。
ですから機嫌が悪くなるようなことを段々言えなくなるし、そうならないように我慢をする、また子供にも我慢をさせる事が増えていきました。

お金がないと不機嫌になるし、もちろん家計も苦しいので私が働きに出ることになります。
そこで社会復帰です。働こうと決めた翌日に職安に行き、即面接、即採用。
長男が2歳の誕生日を迎えた翌日から働き始めました。
保育園の空きが出るまでは、元保育士の友人に協力をしてもらいました。
元夫はその後何度も転職を繰り返していきます。なので収入はそれほど増えません。その分、私がキャリアアップするしかありませんでした。

私は二級建築士の免許を29歳の時に取得しました。お金も時間もないので、学校も行かず独学です。
長男を寝かせた後に勉強しました。製図の経験はあったので可能だったのかもしれません。
年に一度の受験で、ギリギリ次男を出産する前、二度目のチャレンジで合格できました!

次男が幼児期の頃は一度建築を離れて、近所のパート仕事で繋いだりしましたが、大きくなると再び建築の仕事へ。
このキャリアアップがなかったら、後々離婚を決意できなかったかもしれません。

私が元夫に対してプツッと気持ちが冷めた瞬間がありました。
次男を出産するための費用を貯めていた通帳。退院が迫り、手伝いに来てくれていた私の母にお金を下ろして欲しいと頼みました。
ところが残高が足りない…
そうです、元夫が使い込みました。その時は不足分を母が出してくれたと記憶しています。
情けない。ここまでやるか、と本当に悔しくて悲しかった…

それまで色々あっても私が気持ちを留まらせていたのは、彼なりに子供を可愛がって大切に思っていたからです。
そして金額は少なくても、真面目に働いていたからです。
その一件でさすがに軽蔑しましたし、それ以降は母にも時々愚痴を聞いてもらうようになりました。それまでは心配かけまいとほとんど話してこなかったので。それは随分楽になりました。

こうして書いているのを読み返すと、本当に酷い夫のようですね。
確かにそういう側面はあったし間違いではないのですが、もちろんそんな面だけではなかったんです。人として悪人ではなかったし、優しい面も持ち合わせてはいました。
ただ人の気持ちに無頓着だったのかな。
そして自己愛が強かった。
また私にも非がなかったわけではないと思います。
あまりにも弱かった。書いていて自分のことながら本当に嫌になります(。-_-。)

姑が離婚の切り札


結婚といえば嫁姑問題ですが、私たちは良好な関係だったと思います。
当初は思ったまま言葉を発する義母が理解できずに傷ついたり嫌だなと思うこともありました。
でもそれも慣れてくるもの。
近くに住んでいたため会う機会も多く、義母も娘がいなかったので可愛がってくれました。
初めは金銭的な援助をされる事に抵抗がありましたが、そのうち開き直って有り難く受け取る事にしました。

前述の私の気持ちが冷めた後も長年離婚せずにいた理由の一つは、義母がそれを望まなかったからです。
私たちの関係がよくないことはわかっていました。精神的に弱い部分のある義母は、それをわかっている私に懇々と頼むのです。もし離婚するなら私が死んでからにしてちょうだい、と。
義母のことは好きでしたし、悲しませたくはなかったのです。私が我慢すればいい、と本気で思っていました。

そして2012年、義母が亡くなりました。
すると元夫は、それまでちょっとした事でキレて私に当たっていたのに、パッタリとしなくなったのです。
あ、不機嫌だな、とこちらが警戒しても、彼がグッと飲み込むのがわかりました。
あー、母親がいなくなって、今度は私がいなくなるのが嫌なんだなと思いました。
そしてそれは義父も同じでした。いい人でしたが、義母が亡くなって以降は過剰に機嫌を取られているような気がしました。
この家に女は私一人。男二人がそれまで義母に向けていた依存心を、今度は私に向けているように感じて嫌悪感を抱きました。もちろんこれは私の思い過ごしかもしれません。

翌年、義母の一周忌を終えて1ヶ月と経たないうちに、私から離婚を切り出しました。
彼は少し驚いた顔をしていましたが、いよいよその日が来たか、と半ば覚悟を決めたようにも見えました。

ついにバツイチに!


離婚についてはその場で了承してもらえましたが、実際籍を離れるまでは4ヶ月半ほど要しました。
子供たちが一人は成人になり、もう一人は高校生だったので、名字を変えるのは可哀想です。籍を私と共にするので、私は姓をそのままにする事にしました。
実際、私は免許仕事ですし、名前が変わると取引先の人への説明も面倒、という事情もありました。

結婚生活が20年を超えると「熟年離婚」というそうです。年齢ではないんですね。
結婚生活は21年10ヶ月。
2013年の秋、晴れて独り身となりました!


最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

*****
episode6 に続く。

その前にepisode5.5もどうぞ。

この記事が参加している募集

自己紹介

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?