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【Essay】 『芸術とドラッグ』

 ロックンロールは悲しみを大声で叫んだ音楽だ、と云ったのはジョン・レノンだっただろうか。ロックンロールが誰にとっての、どういう音楽なのかはそれぞれの答えに委ねるとして、芸術作品の陰影に「悲しみ」という要素が大きな意味をもっているということには、深い共感をもって頷かざるを得ない。芸術家のバックグラウンドに不幸や悲しみの影が見えるだけ、その人が生み出す作品には「重み」、言い換えるならば「説得力」が備わる――ような気がするから。

 ジャズミュージシャンのチェット・ベイカーの伝記映画『ブルーに生まれついて(原題:Born to Be Blue)』で、イーサン・ホーク演じるベイカーは、物語の終盤、一度は手放したはずのドラッグに再び追いすがる。ミュージシャンの成功と栄光の物語の背後には、必ずといっていいほど、音楽家である以前に人としての日常を犠牲にするような、人間らしさの破綻と隣り合わせの危うい物語が通奏低音を奏でている。私はこの映画を立川の映画館で観て、このフィナーレにひどくがっかりさせられたことを、映画そのものの鮮烈な印象とともに覚えている。

 荒々しく生涯を過ごし、悲しい最期を迎えた著名な芸術家は、ミュージシャンの世界に限らず、数えたらきりがないほどいる。

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 たとえば生きるうえでの苦悩から仮初に楽になる手段の一つとして、しばしば違法として認定されている、強烈な効用をもつ薬品に頼ることが考えられるとして、その人が「ハイになった」状態で生み出す芸術作品を、現代日本に暮らす私たちはどう受け入れるべきだろうか。

 巷でよく耳にする《作品に罪はない》という言葉そのままの精神で、作品をその個人から独立させて評価すべきだろうか。

 それとも、陸上競技のランナーがドーピングをして作った記録が無効になるように、作品自体の価値を闇に葬ってしまうべきなのだろうか。

 日本の芸能界においても後を絶たない、人気タレントやミュージシャンの違法薬物の所持と、その人が関わっている(いた)作品をどう扱うかという議論。そしてその人の復帰の是非に関わる意見のぶつかりあい。

 《作品に罪はない》という主張が仮に認められるとしたら、それによって、当事者を含むどれだけの人が救われ、楽になり、あるいは傷つき、不安になるのだろうか。〈作品〉や〈芸術〉とよばれるものがいったい誰のために、何のために存在するのか、という全人類に対する問いかけは、その思考のための小さくはない手掛かりとなりそうだ。

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 川端康成の『古都』という優れた小説は、川端曰く、「眠り薬」の濫用によってかれ自身が「うつつないありさま」まで追い込まれているときに書かれた作品だ。入院を余儀なくされるほどの苦しみのなかで作品と向き合う小説家の異常な態度に、悲壮ともいえる情熱と同時に、私はどこか期待を裏切られたような思いもしなくはなかった。それは、『古都』という作品の静謐な世界像と、それを描く柔らかな筆致が、追いつめられた精神状態の作家によって紡がれたものだと信じたくない自分がいたからだ。

 『古都』を書き終えた川端康成はその十年後、自ら命を絶つ。

 人生の重要な哲理は、ある苦しみを経た特殊な人たちの、トランス状態に陥った、限られた一瞬にしか見えないものなのかと、作品を読み終えたあとの当時の私は、突き放されたような寂しい思いを味わったことを思い出す。〈芸術〉は自分に身近なものとしては在り得ないのか、と……

 冒頭の、ロックンロールとは、の言葉に対比させるならば、「小説とは悲しみを言葉で描いたものである」。そうだとすれば、本当に人類にとって意義のある小説を描くためには、作家の人生が破綻してゆくことが、右手にペン、左手にドラッグ、のような状態が、芸術家にとってはかえって理想的であるかのようだ。偉大なそれらの作品に影響を受けた私たちの生き方を、生み出したかれらは「より良く」しようとしてくれたのか? それを保障してくれるのか?

 ならば、《作品は大いに罪深い》、それが真実なのではないか?……

 そして思い至る。そこに罪深い一つの作品があるとして、それを「なかったこと」になど決してできない、ということこそが、〈芸術〉という営みを真に物語っているのではないか、ということに。〈芸術〉の正体が見えてくる。

 すると芸能界の薬物関連のさまざまな議論が、たちまち些末なやり取りのようにも思えてくる。「なかったことになどできない」という本当の芸術の凄まじさ、怖ろしさが、けっして歓迎できるかたちではなく、頭をもたげてくるのだ。

 芸能界での薬物関連の不祥事は、かれら芸能人の作品が、スポンサーの意向を大きく反映した「商品」なのだから、「悲しみを叫んだ」タイプの芸術作品とは性格を異にしていることは間違いないだろう。『古都』の例が適切だと私自身も確信しているわけではない。私生活での入り組んだ悲喜こもごもはゴシップという切り取られ方をするが、本来、大衆に向けたわかりやすいメッセージの発信役を請け負うことこそが、芸能人にとっての重要な役割なのだろうから。

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 最後に個人的なことを言えば、私は私自身の文学に「できる限り正直な〝希望〟」を込めたいと思う。それは生活上の悲しみに対してタフでありつづけ、かつそれを作品の基調とするような態度ではいたくない、という、私なりの創作家としての信念である。そうすることによって、私自身と切り離されることのない、私なりの身近な〈芸術〉が成就するだろうという期待を込めて。

 行き詰まったとき、私がしばしば反芻するのは、中原中也がかれの日記に残した以下の言葉。

《詩が生まれるのは情愛からだが、情愛を持とうとして持てるものではない。持とうとして持てるのは、やはり労働だ、――つまり批評精神の活動》

 大江健三郎の言葉を借りるならば、《もっと堅固な文学的努力》。

 もっと堅固な、文学的努力。その先に、優れた芸術が生まれるのだと、ひたすらに信じて。

〈終わり〉

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