アキさん

ウェブディレクター。英国人の妻と息子の3人暮らし。仏教や東洋思想を中心に歴史や政治、経…

アキさん

ウェブディレクター。英国人の妻と息子の3人暮らし。仏教や東洋思想を中心に歴史や政治、経済などから学んだことを発信しています。

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  • 唯識に学ぶ

    唯識について学んだことをまとめています。

最近の記事

利己性が世界を変える(唯識に学ぶ012)

終わりは末那識のことについて。末那識は、阿頼耶識に、利己性、我欲をはたらきかけ、自我の固執と優越感を得ます。この世は無常、常に変化し続けるものなのに、そこに変わらぬ自己を作り上げて虚像の自己を真実と思い込んでしまいます。 道元禅師の「赤心もとどまらず、片々として往来す」と言われているように、真心も移りゆくものだから、常に発心し続けて自らの内に修めておくようにしないといけませんね。 末那識は人が生きていく上で必要なもの。欲がなければ向上もありませんし、愛情がなければ子どもは

    • 外界を変えるのは人柄である(唯識に学ぶ011)

      人格が根本にあって、見る、聞く、嗅ぐ、味わう、触れるなどの感覚に影響していきます。今の自分は過去の自分の積み重ね。何を考えて、どんなものを読み、どんな経験をしてきたかを抜きに自分はありえません。 となると、自分に捉われないようにと思っていても、過去の自分の積み重ねが現在の自分なのだから、知らず知らずのうちに自分の枠にはまっていっているのは当然のことと考えられます。 自分が何をどう見ているかというところに、自己の全てが現れてきます。見ているものを語ることは、自分を語っている

      • 心が変わると外界も変わる(唯識に学ぶ010)

        私たちが見ている空、草木、物など、自分とは切り離されたものと思いがちだけど、実は心と密接につながっているのですね。 受け止め方、考え方で、視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚のすべてが変わっていきます。僕は畑をはじめたことで、落ち葉が宝物に見えてきました。これまでは、ただの落ち葉に見えていたものが、落ち葉が畑の肥やしになることを知ると、落ち葉を見るたびに、これは良い土が作れそうだな、この落ち葉を持って帰りたいなと思うようになりました。 落ち葉の話は、僕自身の意識が変わったことで、

        • 第六意識の能変性(唯識に学ぶ009)

          目に映る空は、地球の反対側の空に繋がっている。一滴の水の中にも宇宙のすべてが内包されている。目に映るのは、ただの空、一滴の水だけど、その奥行きを観るのが第六意識の働きなのですね。 ピンチに直面した時にピンチから逃げるのか、それとも、腹を据えて取り組み起死回生のチャンスとするか。それを判断するのも第六意識の働き。 「苦しい時は苦しみ抜け」という良寛和尚の言葉の通り、主体的に飛び込んでいくという姿勢を問われている様に思いました。 また、本の中には、小林秀雄 小品「モーツァル

        利己性が世界を変える(唯識に学ぶ012)

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          アキさん

        記事

          <心>の複雑さ−能変性(唯識に学ぶ008)

          僕たちは神社やお寺などで祈ります。この祈りが僕たちの普段の行いに知らず知らずのうちに影響を与えています。 祈りとは自分の意を宣ること。私は社会にこのように貢献していくという宣言。志や願いと言い換えることもできます。 「一発菩提心百千万八発するなり」という道元禅師の言葉があるように「発心(志を立てる、願を立てる)」の重要性を説かれています。 この発心(祈り)が、社会に役立つ利己的な自分へと変化させ、感覚や行動までも変わっていくのですね。 思い無くして行動はないし、行動な

          <心>の複雑さ−能変性(唯識に学ぶ008)

          五官は人間の正直な窓(唯識に学ぶ007)

          感覚は嘘をつかないなどと考えたことがなかったです。感覚は、風邪をひいたりすると味覚が変わったり、冷えた身体では水でも温かく感じられたりと、自分の身体の状態によっては受け取り方が変わります。このような面をみると感覚はあてならないこともあるけれど、嘘をつかないってどういうことなんだろう気になります。 たしかに、肌が合わない、気が合わないというのはありますね。物事の受け取り方次第で感覚が変わるということでしょうか。 僕は20代の頃うつ病でした。その時は、大好きなゲームをしても、

          五官は人間の正直な窓(唯識に学ぶ007)

          人間にとって感覚は知性以下ではない(唯識に学ぶ006)

          感覚は人の「情」を育てるのではないかと思います。理屈ばかりが先行して、頭でっかちでは、相手の立場に立つことなどできないですよね。渋沢栄一も常識とは、「智慧、情愛と意思」の3つバランスを保ち均等に成長したものと述べています。強い意志と、聡明な智慧を、愛情で調整する。「感覚」がなければ「情」が調整できません。先代旧事本紀大成経の憲法十七条の第一条にも「楽は情を和らぐ」と書かれています。「情」を中心に持ってきています。それほど、人にとって「情」というのは大事なものではないでしょうか

          人間にとって感覚は知性以下ではない(唯識に学ぶ006)

          <心>の深さー八識(唯識に学ぶ005)

          「心」は「識」という字でも表わすことができ、八つの識にわけられます。(九識もあるがここでは触れない) 八つの識とは、眼識(一識)、耳識(二識)、鼻識(三識)、舌識(四識)、身識(五識)、意識(六識)、末那識(七識)、阿頼耶識(八識)です。 六識の意識は、一から五の識によって認識されたものを統括判断したり、独自に追憶や想像をする働きなどを含めて、いわゆる知・情・意の総てをいう。(中略)ふつう<心>という語からただちに連想するのはこの第六意識であることが多く、これのみが<心>

          <心>の深さー八識(唯識に学ぶ005)

          いまの心は過去と未来の総体(唯識に学ぶ004)

          過去、現在、未来が「今」に集約されます。記憶から消えていても、思ったことや過去の行いの全てが残っていて、今の自分をつくります。そして、今思っていることやこれからの行いが未来の自分をつくります。 自分の都合の悪いことや自分の過去をなかったことにしようとしても、なかったことになりません。心にはちゃんと刻まれます。今の自分は過去と未来の自分でつくっています。今の自分を過大評価することなく、過小評価することなく、適切に評価し、不平不満を言うことなく、ただただ結果を受け入れることが大

          いまの心は過去と未来の総体(唯識に学ぶ004)

          心は身と別ではない(唯識に学ぶ003)

          <心>というものが、私の身体のどこかに、別にあるように考えられるかもしれないが、そんなものはない。<心>と<身>とは一体不可分である。 <身>をはなれて<心>はないし、<心>と別に<身>が呼吸をしているのではない。私は生きている。生きているということは、<心>と<身>との渾然とした一体の人格として、いま、ここに、生きているのである。最も具体的な私の生は、<心>と<身>との統一体として、いずれを<心>、いずれを<身>と呼ぶことのできぬ全体として生きているのである。心即身であり、

          心は身と別ではない(唯識に学ぶ003)

          仏教は心さわやかに生きる宗教(唯識に学ぶ002)

          仏教は、心さわやかに生きる宗教である。という表現が素敵な表現ですね。 捉われない生き方といいかえることもできるでしょうか。今、やるべきことを淡々と果たしていく。 想像すると、カッコイイなぁと思いますが、実践となるとなかなかうまくいかないものです。捉われを無くそうと思えば思うほど、さらに捉われてしまいます。 捉われるのは仕方がないこと。だから、捉われないようにするのではなく、捉われても後にひかないことが大切です。 といっても、感情が邪魔をしますから、すんなりと切り替えら

          仏教は心さわやかに生きる宗教(唯識に学ぶ002)

          心とは何かを考える(唯識に学ぶ001)

          心って、何だろう。 誰にでもあるけど、目には見えないもの。 これが心だ!というものはなく、 ころころと変わって、捉えどころがない。 自分自身の心だって、よくわからないもの。 心っていったい何なのでしょう。 よく知っているようで知らない心のこと。 その心を解き明かす鍵として、 唯識という仏教の教えがあります。 《〈梵〉vijñapti-mātratāの訳》仏語。一切の対象は心の本体である識によって現し出されたものであり、識以外に実在するものはないということ。また、この

          心とは何かを考える(唯識に学ぶ001)