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人間にとって感覚は知性以下ではない(唯識に学ぶ006)

人間にとって、感覚領域のはたらきが、知情意とともに重要な意味をもっているという人間把握である。ヨーロッパ思想史の主流では、感覚は理性の下位におかれているといわれる。前五識よりも第六の意識の方が重要な位置を与えられているのである。それに対して、この八識の<心>体系は別の人間把握を示していると言ってよかろう。実際、われわれが自分の生をふりかえってみると前五識の領域が思いがけず重要な役割をはたしているのに気づく。
- 「仏教の心と禅(太田久紀著)第五章より」

感覚は人の「情」を育てるのではないかと思います。理屈ばかりが先行して、頭でっかちでは、相手の立場に立つことなどできないですよね。渋沢栄一も常識とは、「智慧、情愛と意思」の3つバランスを保ち均等に成長したものと述べています。強い意志と、聡明な智慧を、愛情で調整する。「感覚」がなければ「情」が調整できません。先代旧事本紀大成経の憲法十七条の第一条にも「楽は情を和らぐ」と書かれています。「情」を中心に持ってきています。それほど、人にとって「情」というのは大事なものではないでしょうか。

人は感情の動物と言われています。情を豊かに育んでこそ、人らしい生き方ができるのではないかと思います。

仏教には感覚領域を大切にするという例として<四食(しじき)>というのを説く。<四食>とは段食、触食、思食、識食のことで、段食は、米、パンなどのいわゆる食物であり、思食は意志を、識食は<心>が生命を保持する一面をいうとされるのと並んで、感覚器官が外界を受容することが、生を支えるというので、触食が独立してあげられたものである。人はパンのみにて生きるのではない。又精神のみでもない。触食においても今日の私の生が支えられているのである。
- 「仏教の心と禅(太田久紀著)第五章より」

仏教では食べ物以外に、食が四種類(段食、触食、思食、識食)あると説くのですね。食べ物をはじめ、感じたことや思ったことに加え、自分のやるべきことを果たすということも心身の栄養になるのですね。

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