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<心>の深さー八識(唯識に学ぶ005)

「心」は「識」という字でも表わすことができ、八つの識にわけられます。(九識もあるがここでは触れない)

八つの識とは、眼識(一識)、耳識(二識)、鼻識(三識)、舌識(四識)、身識(五識)、意識(六識)、末那識(七識)、阿頼耶識(八識)です。

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六識の意識は、一から五の識によって認識されたものを統括判断したり、独自に追憶や想像をする働きなどを含めて、いわゆる知・情・意の総てをいう。(中略)ふつう<心>という語からただちに連想するのはこの第六意識であることが多く、これのみが<心>のように思い易いがそうではない。<心>とは八の総てをいうのである。
- 「仏教の心と禅(太田久紀著)第四章より」

五官(視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚)によって、認識したものを意識で判断し行動します。一から六識までは、普段自覚している行為のこと。

七識の末那識(まなしき)も、八識の阿頼耶識(あやらしき)も共にインドのことばの音をそのまま漢字で表記したものであるので、平常触れることのない語であるが、これは六識までの<心>の奥底に自覚すると否とにかかわらず、いつもはたらきつづける<心>である。一から五識の感覚や、六識の意識のように、自分で自覚のできるものと違うという点、あるいは、どんな時にもいつも働いている。(中略)微細深隠の識であるとか、不可知の心であるとかいわれる。深淵のような厚みにおいて人間実存の真相を捉えたものである。
- 「仏教の心と禅(太田久紀著)第四章より」

七識、八識になってくると、日常生活で自覚することがほとんどありません。八識は前世の経験も含まれるとされています。だとすると、この無自覚の領域が自分自身に与える影響は大きいものがありますね。

第七の末那識は、利己的心情・自己中心的思惟・自我愛・我執などの根源となる生のはたらきである。これが無意識裡に常時はたらきつづけている。(中略)自分は利己的ではない。もっと崇高な意識によって善意に充ちた行動をしていると信じこんでいるときも、所詮、人間のやることは利己性を離れてはいないというところにある。それが人間の真実であるからそれにふたをしてはならぬのである。
- 「仏教の心と禅(太田久紀著)第四章より」

人である以上、私欲を無くすということはできません。綺麗事ばかり並べ立てたところで、根底には私欲がある。自己愛、執着、自己中心的であっていいのです。無くそうとしなくていいのです。大切なのは、私欲を私欲のままにしないこと。私欲を公欲に育てていくことではないかと思います。

新渡戸稲造は、「愛国心」の先に「国際心」があると言われました。私欲に留まっていると、なかなか愛国まではいけません。ましてや国際心には程遠い。私欲を国まで広げていき、私欲の垣根を無くすように大きく育てていきたいものです。

第八の阿頼耶識は、中国の学僧は<蔵識>と訳している。あらゆるものを貯えている<心>という意味である。では、なにを貯えているのかというと、それは過去の自己である。(中略)過去の総体が現在の自分であるといっても、過去がそのまま生きながら現在にあるのではない。過去は過去でその瞬間に消え去っている。過去として消えさりながら、同時に現在として更新している。過去と現在は全然異質のものであって鉄線のようにつながっているのではない。しかし、現在の中味は、なにかというと過去の総体であってそれ以外のなにものもない。
- 「仏教の心と禅(太田久紀著)第四章より」

過去は過去として消え去りつつも、現在として更新している。過去と現在は全然異質のもの。という言葉は難しい。過去にも戻れないし、未来にもいけない。ただ、今があるだけ。と、頭ではなんとなく理解できますが、どうしても、過去と今は繋がっていると思ってしまいます。

川の流れのように、パッとみたら同じ川のように見えるが、流れている水は刻々と変化している。このように捉えるとわかりやすいかもしれません。

自己は刻々と変わっているわけであり、刻々にその瞬間瞬間に消え去る自己を包み貯えることによって内容の異なった現在の自己として生存しているのである。こうした生存の一面をとらえたのが阿頼耶識である。(中略)貯えられたものは、なにかの機縁にふれると、ひょっこりと顔を表してくる。
- 「仏教の心と禅(太田久紀著)第四章より」

自分が行ったこと。言ったこと。思ったことは、すべて阿頼耶識に貯えられて、機縁にふれて表に出てくる。「思ったこと」も貯えられるのだから、ゾッとします。できるだけ善行を積みたいものですね。

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