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爽やかで晴れやかな敗北感

「転換期を生きる教師の学びのカタチ」

本書は、教育界では有名な著者である堀裕嗣先生と学級経営のプロフェッショナルとして活躍されている赤坂真二先生のお二人による、文通を交わすスタイルで書かれています。

各地で活躍されている先生方が本音で語り合い、ぶつかり合ったと思ったら、一つのキャンパスに向かって絵を描き始めたかのようにベクトルが揃う。

読んでいる側はまるで2人の対話を飲み会の席で盗み聞きしているかのような感覚になります。

リアルな世界に切り込んで語り合う中で、堀先生は以下のように述べています。

「僕は大学等に見られるシラバスに同様の違和感を持っています。この講義はこういうプランで行う、こういう力がつく、だから皆さん受講してください。大学の先生がそれを作る事は可能でしょう。しかし、その講義を未履修の段階でその講義内容を、その講義プランを理解できるとしたら、もうすでにその学生はその講義を履修する必要は無いのではないでしょうか。」

電撃が走りました。いままで何の疑問も持たずに私は履修登録を行なっていました。

正直シラバスをみても「?」の状態で、必修だからやらなきゃという考えです。「これを学びたいから」とか「こんな学びになりそうだ」とかは全く予想せずに大学生活を過ごしていました。

つまり、「こんな学びができそうで、これはまだわからないなー」と言った、「既存の知識を使いながら未知の領域に踏み込むワクワク感」はゼロということです。

また続けてこのように述べています。

こんなことが本来研究と教育を結びつける大学と言う機関で行われるなど、僕には狂気の沙汰に思われます。供給側は需要側の実態に合わせてあの手この手を打ちながら講義内容提供するからこそ教育なのです。供給される内容について何も知らないからこそ、その自分にはわからない未知の世界を学ぶのです。内容と手立てが提示されて納得できた場合にのみ学ぶなどと言う事は、学びとして原理的に不可能なのです。

完全に注意喚起です。ここでキーワードとなっているのが、「未知の世界を学ぶ」ということ。

また、教育の現場では「深い学び」がホットワードとなっています。他者や自己との対話によって自らの考えが変化したり、価値が変わったりするという点において、この2つのキーワードは共通する部分が多いのではないかと感じます。

もし「未知の世界を学ぶこと」≒「深い学び」という関係であれば、履修登録が義務になっている現状、深い学びを自ら求めようという学生はいないのではないかと思います。

自分もそうでしたが、ボーッとしているということ。

これはかなり危険なことで、深い学びを実感しないまま先生になる人が出てくるということになります。

このことが予想されていないまま、ずーっとシステムが変化しない現状は、堀先生のおっしゃる通り、狂気の沙汰であるかもしれません。

では、私たちは大学・大学院でどのように過ごせば深い学びを実現・体験できるのか。

本書の赤坂先生の一文を読んで少し紐解かれたような気がしました。

「爽やかで晴れやかな敗北感」が意識を自己に向かわせると言う構造は、なるほどと思いました。さらに私が注目したいのは、なぜ、彼らが「敗北感」を「爽やかな晴れやかなもの」にできたのかと言うところです。おそらく先生方は、新しい価値観や自己のあり方の不十分さに気づいたときに、少なからず傷つき、痛みを感じたはずです。堀先生の言うネガティブでいいです。なぜ、彼らはそれを乗り越え、先に進むことにしたのでしょうか。「あなたはそう言うけど、俺はそうは思わない」「私にはそれは無理だ」と、情報遮断することもできたはずです。しかし、彼らはそれをしなかった。そこに、成長を引き出す鍵があるような気がします。

「爽やかで晴れやかな敗北感」は、前のページで堀先生が出した言葉で、赤坂先生が価値づけするという流れになっています。

これを読んで、「爽やかで晴れやかな敗北感」とは、自分にとってグサーッと痛い結果や言葉に対して、敗北を認め、次に活かそうとする態度であると解釈しました。

自分の学部時代を振り返ってみると、アカペラで上手く歌えなくてグサーッ。教員採用試験に落ちてグサーッ。研究がうまくいかなくてグサーッ。敗北が何度もありました。

そのたびに、友達や家族、先輩や彼女と話して、気持ちを落ち着かせたり、勇気をもらったりしました。新しい発見なんかもありました。

ここで気がつきます。敗北するたびに、人と関わって、「新しい未知の自分を見つけている」と。つまり「深い学び」を行なっているのです。

すなわち、敗北的な経験をいかに爽やかで晴れやかなものにするかが、大学生・大学院生である私たちにとって「未知の領域にいる自分」に出会う手立ての一つなのではないかと考えられます。


終わり

ヘッダー画像の「タコ」については、僕が「赤坂先生こんなこと言うの!?」とちょっと驚いた部分であり、ドキリとした部分でもあります。

そのへんももっと書こうと思っていましたが、疲れたのでここでやめにします。本書を読むとわかります。ありがとうございました。


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