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余情 23 〈小説〉

 試験勉強をいっしょにしましょう、と言って連れてこられたはずなのに、結局は本を読んでいる後輩に、私は呆れてノートに走らせていたペンをそっと放り出した。
 ばからしい。
 そう思ったのだ。二度目の高校生活での勉強は、特別に何かを学べるものではなかった。退屈するほどではないけれど、新しい興味が生まれないということは、動きを鈍らせるものだった。
 それとは逆に、一度目にはなかった出来事が生まれていることに、困惑していた。そのことを不快に思っているわけではない自分に、私は不安を感じていた。
困惑を広げていく原因のひとつである後輩を見た。その手が抱える本のタイトルもいっしょに。
「読んだことある」
「え、先輩もうこれ読んだんですか」
「たぶん図書館のほうで借りた」
「えー。言ってくださいよ。じゃあ、私、今日中に読み終えるので、明日感想会しましょう」
 俄然やる気を漲らせた後輩に、私はことさら低く声を出した。自分も放り出しているのだから、大差はないのだけれど。
「君は、何をさせに私をここへ呼んだんだっけ」
「勉強をみてほしいっていいました」
「言ったよね」
「はい」
 素直に頷きながら、本の数行を読み進めているのが目の動きで分かった。私が怒らないと分かっていて、彼女はこうやって甘えてくるのだ。猫がお腹を見せて喉を鳴らすように。やわらかなその毛並みが、どれほどの武器なのかよく分かっている。生き物として、彼女は本当に優秀なのだろう。
「分かっているのなら、せめてもうちょっとこっちを進めてから、本を読みなさい」
「でも今いいところなんです」
「諦めなさい。そのいいところは、あと百ページは続くんだから」
「じゃあ、もう今日は泊まっていきます?」
「なんで私が待つ方向になってるの」
 言いながら、私も鞄の中から読みかけの本を取り出していた。栞の挟まったページを開いて、紅茶を一口飲む。後輩は菓子入れの器から、四等分に切り分けたどら焼きをひとつ掴んで口へ持っていった。私もひとつ摘まみながら、本に目を落とす。
 こうして学校が終わってからの時間を、彼女と過ごすことが随分増えた。たいてい彼女のほうから声をかけてくれた。なんとなく理由を付けたり、付けなかったりして、私を家に招いてくれるのだ。すぐに夕焼けは終わってしまうのに、声を掛けられると、私はほとんど断ることなくここへやってきていた。座り慣れたクッションと、持ち慣れたマグカップに、また戸惑うことも分かっているのに。
 ふと気になって、私は追い始めた字から目を離した。
「ねえ、今更だけど、君って私にばかりかまっていていいの」
 彼女がひたと私を見た。本で顔が半分隠れているが、その目をみれば彼女が少しばかり不機嫌になったことが分かった。
「どういうことです」
「言葉のままだよ。ほかの人と遊んだりはしないの」
 彼女はつまらなそうに目を逸らした。今その本を毟り取ったなら、見事に折り曲げられた唇が見られたのかもしれない。それをしてしまうと、更に嫌そうな顔をされるのだろうけれど。
「先輩は」
 後輩がまた目を私へ戻した。その色はかすかに揺れていた。不安のような、期待のような、その揺らめき方が独特の美しさを持っていて、私は思わず見つめ返していた。私は美しいものに弱いのだろう。あなたに対して、そうだったように。
「ほかの友達とかいうのと、遊ぶんですか」
「いや、私、仲のいい人いないもの」
「ちょくちょく会ってる、大人の女性がいるじゃないですか」
 あなたのおばさんのことだと、一瞬わからなかった。その言い回しだと、まるで浮気を問い詰められているようだ。
「彼女は、友達とは違うから」
「好きですか」
 後輩の目は真剣だった。それを見つめながら、あなたが見ていた私はどんな目をしていたのだろうと思った。あなたが見てくれていた私という世界は、どんな色の光を持っていたのか。それが少しでも美しいもの、たとえば今の彼女の目のようなものだったらいいと思った。
「好き、とは思う」
 一閃、後輩の目の中に走ったものがあった。
「でも、その先には私の大切なひとがいるの。そういう好き」
 あなたがいる。あなたを挟んで、いつもあなたのおばさんとは会話を重ねてきた。そうしてやっと彼女はここまで来たのだ。
 後輩の目の中に、ゆったりとした幕が下りた。そこに何を隠したのかは分からなかった。ただ揺れる様子に、まるで無防備な愛着を見た気がした。
 分かっているのだ。
 彼女が私に向けているものが、特別すぎる好意だということを。

 後輩が私に向ける気持ちに対して、私は何も行動にうつすことは無かった。彼女と居ることが、どんな感情を挟んだものだとしても、確かな安らぎがあることに変わりはなかった。
嵐が吹き荒れる。その最中に見つけた灯りの恋しいこと。そのドアが開かれたら、溢れた光のなかに手を差し出してしまうものではないだろうか。
 もうひとつ、私には後輩の求めるものに確信を持てないという理由もあった。ただそばにいてくれたらいい。そんな少女の可愛らしい気持ちなら、摘み取らなくてもかまわない。そう思ったのだ。
 彼女の目が、一閃の奥で波打たせた感情。それが何だったのか。私は帰り道ずっと考えていた。
 夕暮れが、一枚一枚重ねられる薄い闇のベールようで、ほんの瞬間目を逸らしていると、赤は流れ薄れ、星はその鋭い光を強めた。棚引いている雲の溝には、影の中にさえも彩りが与えられ、黄昏時は行進を進めていく。
 は、と息を吐いた。肌寒さを感じる。制服はとっくに冬物に変わり、色の重たさに毎日後ろめたさを募らせていた。
 去年の今頃と、私の心の有り様があまりに変化してしまっていた。
 定期的に見上げる空に、引かれる電線の黒が、油断しているとすぐに空に呑み込まれてしまう。意識して足を速めた。指に食い込む通学用の鞄には、後輩から借りた本が入っている。
これを読み終えれば、また私はあの部屋に行くのだろう。後輩の気配の濃くただよう部屋。あっちからも、こっちからも本の話し声が聞こえてきそうな家の中。私はあの家のどこもかしこも気に入ってしまっていた。
 は、ともう一度短く息を吐ききった。
 夜がもう空の半分以上を支配下においていた。

 あなたのことを、そして私のことを、他人が見た時に、またはどちらかのことをよく知っている人が見た時に、どんな関係を当てはめただろう。
 恋人。
 友人。
 きょうだい。
 いとこ。
 年齢は大差ない。二人はそれほど話をすることもなく、騒がしいと注意されたこともなかった。お茶を飲み、おやつを食べ、おだやかな時間をくり返してきた。
 あなたがわがままを言わないから、私も何かを強請ったことはなかった。
 帰るときに、私が次の訪問を口にすると、あなたはおだやかに頷いたり、笑顔を見せてくれたりした。私が縋ったことがなかったように、あなたに袖を引いてもらったこともなかった。
 それはさみしいことだったのか。
 そんなことはなかったと思う。
 私は確かにあの日々、毎日が満たされていた。あなたがたしかに生きていた時間。それは十全に幸せで、今、一番焦がれているものが全てそこにあるのだ。
 あなたが生きている。その時間を意識せずに生きていた時間も、遡って全てを肯定できるほどに、私にとってあなたは基準となっていた。
 あなたが生きていることを、こんな風にもう一度体験できるなんて。
苦しく、惨めで、ひたすらに救いのないことを信じていた毎日が、こんな報われかたをするなんて、信じられなかった。
 あの日、あなたが生きている時間に戻ってきた時、病院に向かっている最中、あなたの病室の前に立ったあの時、そしてあなたをまた目の前にした瞬間が、どれほどに私を打ちのめし、粉々にしてくれたことだろう。
 あなたが息をしていること。あなたがまた私を見てくれたこと。あの色を。あなたのうつくしい目を、私が見ることができた。その中にくっきりと線を結び、あなたが私を認識してくれた。あなたの世界に触れることができた。その極上のゴールラインが、私の中をどんなふうに変えたのか。
 十年。それはたしかに長い日々だった。息をすることが苦しかった。どこからが現実であるのか。一日を見送るたびに、間違いのような気がしていた。取返しのつかないことをくり返しているように感じていた。
 十年生きれば、死ねる。
 その灯火を頼りに、小舟で大海原を揺られ続けたのだ。
 十年生きたなら、もう二度とあなたがいない朝に起きなくてもいい。
 十年生きられたら、もう一生あなたがいない世界に存在しなくてもいい。
 十年生きてさえいれば。
 口の中がおかしくなるくらい、その言葉を唱えてきた。
 そしてたどり着いた場所で、もう一度あなたと会えたのだ。
 複雑に色を放ちあい、一カ所には収束してくれない心が、それでも全てであなたを請うていた。
 おかしな話だけれど、あなたともう一度会えたこの経験があったから、私はもう一度十年を生きることを自分に許せたのだと思う。
 あなたがいる。その現実がもう一度叶うのではないか。二度もあなたを失った私には、その奇跡を受けられるのではないか。
 神様は信じていない。居ても居なくても、どちらでもかまわない。祈ろうと思ったことはない。あなたがそういう人だったから。私もあなたのことを祈ったことはなかった。あなたが死んでからも、だから祈ったことはない。
 それでも、奇跡は存在する。
 私があなたに会えた。
 この奇跡を、私は信じているのだ。

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