余情　２９〈小説〉

　新しい年に渡った。それなのにこの時間を、私は生きていたことがあるということが不思議だった。
　後輩には、冬休みの間に何度か会っていた。本屋を巡ってから後輩の家に行くか、真っ直ぐ後輩の家に行くのかの違いがあるだけだった。後輩に会っている時間は、とてもやわらかで、私は彼女が誘うままに頷き返していた。
　そんな冬休みを過ごし、明日からは学校が始まるという日の朝早く、後輩は私を呼び出した。
　それはいつもの本屋への誘いでも、後輩の家に遊びに来てくれというものでもなかった。
　外のカフェで会って欲しい。彼女はそう言った。私は了解を伝えて電話を切った。電話を持っていた手は、短い会話の中で、少し固まっていた。どうしてだろう。そう思う自分がふて腐れているように感じた。どうして、だと思うのか。私自身がその理由を分かっているはずなのに、少しも答えを示さないことに苛立っているのだ。
　私はのろのろとクローゼットを開けて、服を探した。白色のニットを頭から被り、黒のロングスカートを履いた。
後輩に対して自分はどんな心づもりで会いに行くつもりなのか、私が言葉で確定しなくても、体は分かっているのだ。
　このまま出掛けてしまいたい私を、体が留めて、一本だけのリップを手にした。そっと淡い色を唇に塗りつける。鏡の中の私の変化が、私の上にも張り付いた。
　私がどうしたいかのかを、彼女は聞くだろう。それに対して、私はなんと答えるつもりなのか。
　コートに腕を通して、黒いブーツに足を差し込む。これから触れるだろう冷気を想像して、首が竦んだ。二重に巻き付けたマフラーに、口元を埋め込んで、私はドアを押し開けた。
　呼び出されたカフェは、何度か後輩といったことがある店だった。
　駅の近くにあるけれど、奥まった道に入ってしまっているので学生があまりはいってこない。値段は少し張るけれど、他に学生がいないということは、どこか居心地がよかった。
　私は寒さから少し早歩きになりながら、その店へと歩いた。今日も雲は多く、空はかすかにその淡い色を覗かせる程度だった。今年は雪が少ないとニュースで言っていた。たまにちらちらと落ちてくるばかりで、確かに積もるほどには降らない。それが理由で不作になったり、逆に別のものが例年よりも味のいいものになったりしていると、ニュースは毎日たくさんの事実を流していた。
私が一度目に通り過ぎてきた時間ではどうだったのか、もうよく思い出せなかった。それがどうしても裏切りのように思えて、私はあなたの死とはまた別の渦を、自分で発生させてしまっていた。
　店の前に来て、店内を外から覗いた私に、窓際に座っていた後輩が手を振った。中に入って、店員に彼女の連れであることを伝えた。赤いワンピースを着た後輩が、立ち上がって私を待っていた。彼女の前の席に着いた私に、店員がおしぼりと水を持ってきてくれた。すぐにレモンティーを注文する。浅く、柔らかく一礼をし、店員が立ち去る。それを待って、後輩は私に笑いかけた。
「先輩はやかったですね」
「それより随分はやく来ていそうな人がいたからね」
「私のためですか？喜んじゃいますよ」
「どうぞ、それくらいは喜んでくれていいよ」
　白いポットとティーカップ。そして白い小皿にはレモンが二切れ。それらを丁寧に置いて、また同じ一礼で店員は去っていった。
　店内は朝の早い時間だというのに、ほどよく混んでいて、いくつか設けられた衝立が視界や会話をそっとそれぞれの空間へと押し返してくれていた。天井に上るコーヒーや紅茶のぬくもりと、その少し下でさざめくおしゃべりが回っている。
　後輩の前に置かれたココアはもう半分も残っていなかった。私はレモンを一切れ浮かべ、ポットから紅茶を注ぎながら、後輩の目線を誘った。いつもなら彼女は遠慮せずに真っ直ぐに私の顔を見ている。顔を中心にして、手や首の動きを追ってくるのだ。その目からの請求の多さが、私を少し緊張させ、それなのに安心するような気持ちで揺らすのだ。
「課題はちゃんと終わったの？」
「終わりました」
「へぇ。やっぱりきちんとやれる子なんじゃない」
「そうでもないです。中学の頃はやりたくないものはページを開きもしなかったですから」
「高校生になったから？」
「いいえ」
　ティーカップを持っていないほうの私の手を、後輩はそっと取った。じわりと力が込められていく。それは祈りはじめる人のような空気を放っていた。細く、長い指の中で、私の貧しい手の存在が濃くなっていく。
「なに」
「私、先輩が好きです」
「前にも、そう言ってくれたね」
「はい」
　手のひらが乾いて、するりとほどけてしまいそうだと感じた。彼女の込める力が、あまりにやさしくて、このまま繋いでいるためには、私の協力を求めている。そう感じさせる握り方だった。このまま私の手は、彼女の手に包まれて消失してくれたらいいのに。手のひらばかり大きな、私の手は、零れていくものを選べない手だ。
「でももっと私は、口から以外でも言ってきたし、先輩はそれを正しく受け取ってくれていましたよね」
「そうかな」
「言葉にすることだけは、避けられていますけど。
ねえ、先輩」
「なに」
　後輩が、願い事をするように私の手を引き寄せ、唇のそばへと近付けた。
「先輩は、私が好きですか」
「好きだよ」
「私の好きを理解してくれての答えですか」
願いを請う姿勢のくせに、彼女の目はとても鋭く、どんな小さな不連続の揺れの意味も、たちまちに解読してしまいそうだった。
私はもう一つの手が指を通したまま、持ち上げられずにいるカップへ目を落とした。色の変わった紅茶は、ゆっくりと冷めてしまっていた。そしてきっとレモンがきつく入りすぎているだろう。浮かんだレモンが弱々しく、カップの水面に映る私を半分隠してくれていた。
「わからない」
　レモンにそっと降り立つような、小さな困惑。足下のぐらつきが、自分の揺らぎだと知られないようにしたかったが、後輩はそれを上手な力加減で持ち上げて、小さな口の中へ放り込んでしまった。
「分からない、ですか」
「そうとしか、いえない」
「私がどういう気持ちの好きか分からない、ということですか」
「たぶん、ちがう」
　彼女の指の力が僅かに強さを増した。そして意識して、次の瞬間にはそれを元の状態へともどす。
「じゃあ」
「私は、あなたの好きという気持ちは理解していると思う。でも、どこまでを求めているのかは分からない」
　後輩の目が鋭く私を探った。丸いその目の中、私が正確に彫り込まれていく。私がどんな言葉を選ぼうと、彼女はそれをそのまま呑み込もうとしているのだ。その広さが彼女にあることを、私は知っている。
　あたたかな店内にいるのに、たしかに触れ合っているというのに、彼女の手の温度は見えない空間へと流れでているかのように、薄かった。彼女の頬も、出血をしているように白が覆っている。
「ほんとうに、わかりませんか」
　その目が、とたんに子供のように変化した。
「分かってあげたくないんだろうね」
「正直ですね」
「それは、あの人のおばさんに言われたな」
「先輩が正直なんて想像がつかないから」
「私は嘘つきじゃないと思うけど」
「嘘は言わないですけど、本心もけして言わないじゃないですか」
「少しは言っていると思うけど」
「言っていませんよ。大事なことだと、何一つ」
「何を言って欲しいの？」
「先輩は、」
　後輩の手から私は手を抜きとった。包まれていた場所から離れて、やはりあの場所は温かだったことを知った。それをよかったと感じる。後輩の手が温かで、よかった。
「せんぱいは、ほんとうは死にたいんでしょ」
言葉と同じ速さで、後輩の目からは涙がこぼれ落ちていった。
　細くてきれいな滴が、頬を流れていくのを見ながら、私は言われた言葉を心臓で受け止めていた。
　死にたいんでしょ。
「どこまで話ていたっけ」
「せんぱいには、だいじなひとがいるって。でもその人は亡くなったって。だからあの本を貸した私を怒っていましたよね」
　後輩が瞬きをすると、弾きだされた滴がこぼれていく。その透明がいくつもの光を抱えているように見えた。外の光の含む色の多さなのか、彼女自身の感情の豊かさなのか、その光はとてもうつくしく見えた。
「怒っていたかな」
「正直怖かったですよ」
「笑っていた記憶があるんですが」
「つよがりというやつです」
「十分、強靱な精神をもっている人だと思うけど」
「私が、先輩にはじめて好きだって言ったとき、先輩はあまり表情を変えませんでしたね」
「そっちがいきなり唇を舐めるなんてことをしてくれたからね」
「驚いていたって言うんですか？」
「普通に踊りていたでしょ」
　後輩は俯き気味になって、息を強くはいた。祈るようだった両手は、彼女の細い顎の支えになり、その表情は憂いがとても似合っていた。
　赤い袖口から零れる彼女の手首が白く、儚げで、それはきっと彼女の内側の一番やわらかな部分に繋がっているのだ。
「私、先輩といっしょに居たいんです」
「ありがとう」
「もうすぐ先輩卒業ですよね」
「そうだね」
「大学に入っちゃったら、私とは疎遠になるだろうなって、思っていますよね」
「そういうものじゃない」
「そうですね。なので、先輩、私と付き合ってください」
　後輩は涙に濡れた、まるい瞳で私を真っ直ぐに見た。不思議な光景だった。彼女の涙は零れていくだけで、鼻の頭を赤くさせたり、言葉を濁したりはしないのだ。だから惨めにも、可哀想にもみえなかった。彼女の目が、真っ直ぐに私を見つめているだけなのだ。つよい光が、余計に周りの光まで集めているだけで。その目が瞬きの度に睫を揺らす。それが可憐に見えて、私は小さく溜息をついた。
「脈略がないね」
「さっき、私にどこまで求めているのかと聞きましたね」
「そうね」
「そばに居させてください」
「それだけ？」
「そうです」
　私の顔が間抜けな間を作った。思わず喉に通したレモンティーは、もうすっかり冷たくなっていた。唇に当たったレモンは唇に跳ね返されてカップの底に落ち着く。そっと鼻に抜けるその香りの微かな量。これを注文したことを、私は後悔していた。もともと冷たいものだったのなら、私はこんな後悔を感じなかっただろう。
「私が先輩に強請りたいのは、先輩の時間を共有することです。邪魔のない程度で、私が先輩のそばに居る権利をください」
　後輩はつよい笑顔を私に向けて言った。私が否と言うことは想定していないように見えた。彼女の目は本当に明るく、真摯であるのに、私の言葉のすべてを取り込もうとしているのだ。貪欲ささえうつくしくとらえなおさせる笑顔は、たとえ苦しむ方向を向いても、けして変わらないのだろう。
私は残りのレモンティーを飲み干し、そしてポットに残った紅茶を全て注いだ。濃く出過ぎた紅茶の色に、無謀にもう一切れのレモンを足した。
その様子を後輩は面白そうに眺めながら、涙の筋を消すこともなく笑っていた