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余情 17 〈小説〉

 あなたのおばさんが、会わないかと声を掛けてくれたのは、夏休みが間近に迫ったある日のことだった。
 彼女は、私の母と連絡を取り合っていたらしく、
「今度の日曜日に会いたいそうだけど」
と切り出してきた。
 あの日―あなたが亡くなり、お別れをするために出掛けたはずが、倒れてあなたのおばさんに夕方近くに送ってもらった日―以来、母は、あなたのことも、何故倒れたのかも、彼女との関係も聞かれたりはしなかった。それはきちんと大人同士が会話を終えていたからだったのかと、今さら気付いた。
「どうするのか決めたら、早めにお母さんに言ってちょうだい」
 母は夕食を用意しながらそう言った。私の好きにすればいいと、それ以上何も言わなかった。
 具を詰め込んだスープの香りが、台所の中いっぱいに広がっていた。やわらかな羽よりも軽く、吸い込んだだけで栄養が摂れそうな気がしてくる。白に、赤、オレンジと緑。
 母には、私の表情はどんなものに見えていたのだろうか。鍋を掻き混ぜていた手を止め、皿の用意をしていた私の側へと母は来た。
「寝られてないの?」
「そんなことないよ」
 ごとりと、重たい音が立つ。深いスープ皿。青と黄色と赤。それぞれの色が決まっている。一番上に置いた黄色の底に、影だけの私が写っていた。
「最近帰りが遅いのは」
「後輩が本を貸してくれるの。図書館みたいなお家でね。本当に家中に本があるの」
「そう。たまにはその後輩の子に、うちにもきてもらったらいいわ」
「伝えておく」
 母は私が目を合わせないのを受け止め、距離を詰めきる手前でそっと離れていった。
 帰りが遅い父を待たず、その日は二人で夕食を食べた。伏せられた青いスープ皿を中継地点に、私と母は会話をした。スープを口に運び込みながら、胃のあたりがその熱で浮かび上がるような気がした。
夕食を食べ終え、すぐに自分の部屋に戻ろうとして、私は不自然に足を止めた。
さっきの話は、今決めてしまわなければ、きっと断るだろうと思ったのだ。この台所を出た瞬間、答えは凍結してしまう。たぶん断ったってよかったのだ。けれど私は言った。洗い物をさっさと片づけてしまおうと流しに立った母の背中に
「日曜日、私も会いたい」
そう言った。母はスポンジを泡立てている最中で、顔だけで私へ振り向いた。ゆっくりと瞬きをしてみせた後「わかった」と言った。
 それはあなたのおばさんの提示した日曜日を前にした木曜日の夜のことだった。
 
 
 日曜日、下に下りた私に、母は
「昼の少し前に向かえにくるから、一緒にご飯を食べましょうって」
と言った。私は手櫛で髪を整えながらそれに頷いた。
昨日も本を遅くまで読んでいたために、目がしばしばして、視界が少し白く曇っていた。母が用意してくれた朝食を口に運びながら、私は今更、どうしてあなたのおばさんと会うことを承諾したのかを考えていた。
 一度目の私と、あなたのおばさんの縁は、あの日にあなたの死体を前に切れた。個人的な連絡先を交換したりもしなかった。あなたという接点を失ってなお、関り続けていく理由はなかったのだ。それは彼女にしたって同じだと思っていた。
 櫛切りにされたトマトを口に放り込みながら、外を見た。窓硝子に、行儀悪くひとつ膝を抱えた私の姿が映っていた。眠たそうな顔だった。本を遅くまで読んでいた昨夜だけではない。繰り返しの疲れがその目の下には浮かんでいた。
 けれど、眠れていないのかと聞かれても、私にはどちらなのか正直よく分からなかった。夜、目を閉じて、横にはなっている。浮遊感に包まれて、眠りに落ちていく感覚もある。けれど、そのまっ暗な場所で、私はいつまでも秒針を数えているのだ。それが夢なのか、現実の時計の音なのか、判然としないままゆるく痺れた体を持て余し続ける。それが私の睡眠だった。
 朝食を終えて顔を洗った私は、二階へ戻り着替えをはじめた。もう見慣れた十年前の私の洋服たち。着られればいいと思っている私に対して、洋服たちは未だに自分達の本当の主を待っているような気がした。自分が袖を通すべきではない。この気持ちは、いつまで抱くことになるのだろうか。お互いに諦められたなら肩の力を抜けるだろうに。そう思いながら今日も軽いクローゼットを閉めた。
 
 
 あなたのおばさんが私の家の前に到着したのは、前もって伝えられていた通りの時間ぴったりだった。
 薄暗い梅雨が過ぎ、夏は始まったばかりだというのに、コンクリートを焼く熱量は相当のものだった。
 青いワンピースを着た彼女が、運転席から下りて、玄関先に立っていた私に手を振った。母が見送りに出てきて、彼女に頭を下げた。それに挨拶を返した彼女は、やさしく首を傾げて私を見た。やさしく笑う彼女の笑い方が、病院で見てきた彼女のものと似ているような、もう全く別のものになってしまっているような、不思議な感覚を呼ぶ笑顔だった。
「久しぶりね、もう夏バテしいてるの?」
「おひさしぶりです」
 彼女のそばに立って、私は頭を軽く下げた。
 彼女が私の顔色を見て掛けてくれた言葉だと分かっていたが、その場でうまく説明できる言葉が私には思いつかなかった。
「じゃあ、いきましょうか」
 そんな私の心情を汲んでくれたのか、不愛想に感じる私の言葉に彼女は何も言わなかった。私に先に車へ乗るように背をそっと押してから、もう一度母へ会釈をしてから彼女は車へと乗り込んだ。
 フロントガラスから光がまっすぐに落ちてくる。高い位置の太陽が、私がこの場所にきて一年近く経っていることを伝えていた。あなたを、失うと分かって過ごした時間を、鮮やかに思い出す。去年の今頃には、私はここに居なかったことと共に。
「もうすっかり夏ね」
「そうですね」
「試験が終わったところだったのね」
「はい」
「けっこう解けた?」
「それなりに」
「あの子が、あなたは勉強を頑張っていたっていっていたわ」
 あの子。その言葉で、私の中で、繰り返し線を引いたあなたの輪郭が、合図もなくいきなりくっきりと浮かび上がった。あまりに鮮やかで、声が漏れそうになった。息も出さないように唇を噛んだ私に気付かず、彼女は話を続けた。
「夏休みだからとよく来てくれていたでしょう。私心配になっちゃって、あの子に、あなたは勉強をする時間はあるのかしらって、聞いたことがあるの」
 やさしい壁紙の色と、控えめに飾られ続けた花。薄緑色の花瓶のカーブと、あなたの横顔。光に焼かれ続けたカーテンが、冷房の微風にかすかに揺れていた。
「そしたらあの子は、なんだか嬉しそうに、あなたは自分に会うために勉強はしっかりやっているから大丈夫なんだって。あの子は、それが嬉しかったのね。あなたがたくさん会いに来てくれるってことは、あなたがちゃんと勉強をしているからだって。あなたがちゃんと自分のことを頑張っていることが、あの子には生きていくことの支えになっていたのだと思う」
 あなたに会いに出かけるようになって、たしかに私は前よりも勉強をよくするようになった。それはあなたが、そうでなければ会えないと言ったからだ。私に会えなくなるのは悲しいから、どうか勉強を頑張ってほしいと少し照れたようにあなたは言ってくれた。私はまるで熟しきった甘すぎる果実をあなたに食べさせてもらっているような気になった。あなたに告げる試験の結果も、あなたが嬉しそうに見ていた私の制服も、もうあまりに遠い場所の出来事だった。
 あなたがまた目の前に現れた日、あまりの鮮明さに目を疑ったが、こうして失って一年近くが経ち、振り返ったとき、あなたはやはり十年を経た色で微笑んでいるのだ。その落差に、唖然とした。そして私に、あなたを失って正しくはどれくらい経ったのかを思い知らせた。
「あなたに、だからお礼をいわなくてはと、ずっと思っていたの。でも私の方も、なかなか言葉にしてあの子のことを語るまで、時間がかかってしまった。ありがとうが、こんなに遅くなってしまって、本当にごめんなさい」
 彼女は、前をむいたまま、私にそう言った。
落ちてくる光が眩しすぎて、私は顰め面をしていた。彼女の口から語られるあなたの語った私の話は、とても懐かしく、幸せで、光のような生命力を宿して私に入り込んできた。私の知っているあなたと、そしてあなたが語った私は、十年を超えてやっと出会えたのだ。それはとても嬉しいことなのに、それはあなたがいないことで叶う邂逅なのだ。
彼女が私の顔をちらりと伺ったのが分かった。思うことはあっただろうけれど、彼女は何も聞かずに、すぐに前へと視線を戻した。おかげで私は、この生まれたばかりのほの明るい混乱を、ただ夏の始まりの光で見ないことができた。
 
 
「夏休み、お泊まりに来ませんか」
 後輩が言い出したのは、修了式のすぐ後だった。
 怖い物知らずな後輩は、式の終わりを宣言され、学年ごとに移動する時を狙い大勢の前を横切って、私のところまでやってきた。彼女を見たクラスメイトたちは、あまりの大胆さに驚いた顔をしていた。その視線を断ち切るように、私は後輩の背を押して生徒が出ていくのとは別の出口へと向かった。列を離れることを近くのクラスメイトへ伝えると、そばにいたクラスメイトは黙って頷き、小さく手を振ってくれた。私はその彼女に素早く拝むような仕草を返した。
 背中を押されることを面白がっているのが、彼女の肩のこまかな揺れで分かった。その様子に溜息が漏れそうになるのを堪えて、私は後輩を体育館の外まで押し出したのだった。
 まだ午前中だというのに、外はもうこれ以上膨張できないほどに暑かった。汗が私の首筋を流れていく。蝉の大合唱ももう引き上げていた。まわりを囲む木々の落とす影だけが少しばかり涼しそうだった。
すぐ側を他学年の先生が通りすぎ、その目が不審そうに私と後輩を見た。その目にできるだけ自然に映るように願いながら二人で頭を下げる。それが通じたのか、ただ暑さから早く逃れたかっただけなのか、先生は私たちには声をかけることなくその場を通り過ぎて行った。
「暑いですね」
「泊まりって、なに」
「そのままですよ。うちで読書合宿しましょうよ」
 後輩は楽しそうに話しだした。きれいなピンク色の頬が、じんわりと熱を蓄えている。黒髪も夏に撫でられ、きらきらと光をいっぱいに抱え込んで色を生き生きと揺れていた。私の顔をしっかりと覗き込んで、彼女は立て板に水の勢いで話し出す。
「うちなら読む本には困らないですし、先輩が来てくれたら、私の部屋でクーラーを付け続けても文句は言われないし、最高じゃないですか」
 私の目の中に、彼女が丸ごと入り込んでくる。そのつよい希望のかたちを収めると、あとで私の目はちかちかして視界が明滅するので、あまり近くで入り込まないで欲しかった。
だから私は、彼女の目をみないまま口をひらく。
「そんなに急に言われても、返事できない。予定とか考えないといけないでしょ」
「とりあえず今日、一回泊まりに来てくださいよ」
「今日?」
「予定ありますか?」
 彼女は私が首を縦に振ることを知っている。どうせこの後図書室で会うはずだったのだ。
今学期最後になる図書室の貸し出しの日に、何冊か借りていくのか、夏の間は図書館を利用することにして、その場で少し読めるものを読もうか。そんなことを校長先生の話を天井に吹き上げながら、ぼんやりと考えていたのだ。
まさかこんな風にクラスを抜け出すことになるとは、思ってもみなかった。
 後輩は、夏の暑さに負けない楽しげな空気を発散しながら、私の目を追いかけた。回り込んでたたみ掛ける。
「いいですよね。じゃあ、着替えに一度帰ってから、荷物をもって私の家に来てください」
「分かった」
 あきらめてそう口にする私に、彼女は余計に楽しさを濃くしながら笑った。子供のようだと思う。私は彼女の姿勢の正しい押し方に、いつも圧し負けてしまうのだ。
 それじゃあ、と細い手頸を揺らして、後輩はさっさと自分のクラスへと引き上げていった。私のクラスも、もう教室に戻っているだろう。掃除をはじめているかもしれない。出来るなら誰の注目も集めずに、その中に戻りたいと思った。水分が下にすっかりと移動してしまったみたいに、足が重たかった。人の散った体育館の側面で、夏が海月のように頭からすっぽりと私を覆っている。
 
 

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