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余情 25 〈小説〉

 あなたが亡くなった夏の終わりが近付くと、私の体調は少しずつ、けれどある瞬間にごっそりと崩れる砂浜の砂山のように崩れていった。
 朝、起き上がるまでにおそろしく時間がかかるようになった。目が覚めた瞬間、私はあなたがまだ病院にいて、今この瞬間も生きているのではないか、という考えの中に沈んだ。その中で窒息してしまえたらいいのに、私は、それでもあなたの事実を一つも曲げて認識したくはなくて、言葉にして、自分自身に染みこませた。それが劇薬だとしても。肌の全てが溶けてぼろぼろと落ちるようなものだとしても。
 毎晩夢を見た。私はいつでも明るい空間の中にいる。そこで繰り返し声が降って来る。または反響して足元から跳ね返ってくるのだ。
 あなたはもういない。
 ここには、あなたがいない現実が息をしているのだと。
 それは時間にすれば数分の夢なのかもしれない。けれど目が覚めた私の胸は、早鐘を打ってその存在を主張した。あなたはいない。私は生きている。その言葉のたびにうすいTシャツの生地の上から、胸の上を拳で叩いた。拳の下で音を立てる心臓に、腹が立つのを堪るように。ゆっくりと深く呼吸をすることを意識した。汗が体中を覆っていた。その不快感に気付き、平時と同じ感覚が体に戻るのを待った。そしてやっと私は、こわごわとベッドから起き上がるのだった。
 あなたがいない今日。それをくり返しながら、やっと二年。その事実に涙がこみ上げた。胸が痛み、体が現実に動く事実にきしんだ。油断をするとすぐに叫び出しそうになるのを必死で堪えた。
 あなたは、十年を願った。
 あなたが残したものを、私がきちんと遂げてからゆこう。そう、あの日に決めた。
 重たい体で押し開いたクローゼットに、飾り気のあるものは殆どなかった。かき分けたその中は、色味も乏しかった。ただ後輩の頑張りでここにある何着かをのぞいて。けれど私はせっかくのその服を、自分のためにはまだ着られないでいた。
 黒の丈の長いTシャツに、黒の細身のパンツを身につける。汗で体が冷えていた。朝の、まだ奥深い時間のなか、できるだけ階下に振動を伝えないように気を付けながら動いた。空はまだ群青色が大半を占めていている。窓の前に立って私は網戸を開けた。色を見上げる。今日もおそらく晴れて暑い一日になるのだろう。星がまばらに残る空は、もう浅瀬のように、かすかな風の波紋にゆれていた。
 あなたがいない朝だ。
 こうして早過ぎる時間に目が覚めても、私には何もすることがなかった。ぼんやりと、見慣れた場所が朝に浸されていくのを見つめるばかりだ。
 そのうち家の中から、または外から、活動のはじまりの音が立ち上がりはじめる。母の日常に、あなたは関係がない。父の日常に、かすかな罅さえいれない。この見える限りの家々の人の朝も、あなたのいないことで波だったりはしない。それらは私にとって、とても不思議で、そして受け入れることが難しい事実だった。あなたが居なくなる前まで知らなかった。誰しもが、自分だけの朝に存在しているなんて。どんなに親しくなっても、血を分けていても、この朝には私しかいないのだ。
 その事実が私には、救いにもなった。あなたがいない朝は、あなたがいた日常があった私にだから訪れたものなのだ。このおかしくなりそうな毎日の目覚めは、あなたがいて、いなくなって、だから私に訪れた朝だ。
 ただ湧き上がって、静かに流れていく涙に、私は何故を問いかける。
どうして泣いているの。
 答えは返らない。
 落ちていく涙は、沈黙しかもっていない。何も持っていかない。何も埋めない。そんな存在が私から溢れていった。
 どうして。
 立ち尽くしていた私は、弱々しい風に髪を揺られて泣いた。
朝は、もう始まってしまっているのだ。

 あなたのおばさんとの交流は、ゆるやかに続いていた。週に何度も会うことはなくなり、週に一度だったものが少しずつ伸びていき、今は月に一度くらいだ。習慣になった、という振りをして会っていた。
 もう突然に朝の散歩に誘われたり、夜の海に出掛けたりはしなかった。
 チェーン店のカフェに入り、お互いの近況を伝え合い、すこしだけあなたのことを話す。最近はあなたのお母さんの話が多くなってきたように思う。
 あなたの幼少期の話。あなたの好きだった絵本の話。あなたが大切にしていた猫の話。あなたが熱を出した時にせがんだ料理の話。あなたが小学生になることをとても不安に思っていた話。
 私の知らなかったあなたの時間を、随分知ったような気がするけれど、それはきっと気のせいなのだろう。
 あなたのお母さんの話をする時、あなたのおばさんは少し眉を寄せた。苦しげなというほどではないけれど、胸の中にまだ残る罅が、脈動のたびに痛むような。冬のささくれが指先を刺す痛みのような。身近で、どうすることも出来ない痛みが、小さく残っていること。細い眉の動きで分かるくらい、私は彼女と顔を向かい合わせてきたのだ。それがどうにもおかしくて、私は目線を下げて口元を誤魔化した。
「最近は、どんな本を読んでいるの」
 あなたの命日が近付いたある日、私は彼女と会うことになった。
 涼しい店内で、氷の山を崩しながら、遠い光を目に揺らめかせた。赤い、椅子の背もたれが、あなたのおばさんの着ている淡いブルーのブラウスの透ける儚さを引き立てていた。
「同じクラスになった子が、ミステリ小説が好きで、彼女のおすすめを読むことが増えました」
「へぇ」
「ミステリって、人が死なないものもたくさんあるんだってはじめて知りました」
「私も学生の頃はよく読んだなあ」
「ミステリですか」
「そう。友達がよく本を読む子で、その子にたくさん作家を教えてもらって読んでいたの」
「今でも覚えてる本はあります?」
「うん、何作かは覚えてるわよ」
「読んでみようかな」
「いいね。かわりにあなたが読んだおすすめを私に教えてよ」
 彼女がミステリ小説を読まなくなったのは、あなたが長く入院するようになってからだと言った。あなたは幼いころから病弱で、寝込むことが多かった。なんとか家族の手で対応していたけれど、やがてあなただけではなく、あなたの母親も体調を崩しはじめてしまったことがきっかけだった。完全に壊れてしまう前にと、あなたの父親は手を打ったのだ。あなたの入院が決まり、あなたの母親が実家に戻ってきていた時、彼女が読んでいた小説に目をとめて取り乱してしまったという。その時あなたの母親は、「こんな人が死ぬ話を喜んで読むなんて」と怒鳴り散らし、最後には泣き崩れた。それから人が死ぬものは読まなくなったと彼女は言った。
「人が死ぬって分かってるものは、本だけじゃなくて、それがミステリかどうかなんて関係なく、ドラマも映画も見なくなってしまったな」
「私も、そうかもしれません」
 無意識に、あなたと出会ってから。心がその可能性を考えないようにしていた。考えはじめてしまったら、それは私の足首を掴み、悲しみが色の濃い水底へ引きずり込んでしまう。水面を見上げながら、いくつもの空気を吐き出す。私はそんな想像を何度見ただろう。
私はヒロインにはなれなかったけれど。
 二人の前に置かれた硝子の器に、透明を多く含んだシロップだけが残っていた。しばらくそれを目の端に捕え、光を割っていきながら話を続けた。そしてやっと私たちは席を立ったのだった。
 カフェの入り口を出て、二人で並んで歩き出す。道を焼く光線が、街路樹の影を歩道へ焼き付けていった。彼女が手で庇をつくって空を見上げる。雲は手薄で、空はまさに太陽の独壇場だった。
 彼女は車に乗り込んですぐ、エアコンを強めにかけながら窓も全開にした。外からの風はそよと吹く程度で、側の車の走行音のほうが我が物顔で入ってきた。
「夏が終わらなければいいのにね」
 彼女が言った。その横顔は変わらない。けして悲観が口をついたのではないのだろう。唇はやさしい色が残っていた。彼女は額に滲み出した汗を、ティッシュで抑えながら笑っていた。丸めたティッシュをゴミ袋に入れながら、窓を閉める。つよく顔に向かってくる冷風に手をかざしながら、私はその言葉を考えた。窓で区切られた、夏が弱っていく。
「嫌ですよ。そんなの」
「暑いのは苦手だっけ」
「べつに。好きでも嫌いでもないです。ただ」
 走り出した車。窓の上を滑っていく町並みに目をやりながら、もうすぐ三年目がはじまるのだと命の先端が揺れた。
「ここに居たんじゃ、どうしようもできないから」
「そうね」
 彼女は眩しそうにしながらも、前を見ていた。

 
「夏服も、あと少しだね」
 級友が前の席でつまらなそうに言った。
「やっとだね」
「私、夏服の方が好きなんだよね」
「そう」
「卒業式には夏服か冬服か選ばせてくれたらいいのに」
「それは、ちょっとオセロみたいになって間抜けな式の風景になるんじゃない?」
「見慣れないだけよ、きっと」
 すっかりこの組み合わせが落ち着くようになっていた。クラスの中では誰の目にも受験への、大小はあるが不安がちらついていた。目の前の級友には、そう言えばその不安が薄いように思えて、私は口を開いた。
「受験勉強は順調?」
「私、受験しないから」
 彼女はなんてことのない顔をして言った。
「そうなの?」
「そうなの」
「就職するの?」
「ううん。とりあえず日本を一周してくる」
「なんて?」
「日本を、ひとまわりしてくるの」
 瞬きをくり返す私に、彼女は一音ずつをくっきり発音しながらくり返した。
「そのためにお金を貯めてきたんだから」
「バイトってそのための」
「そう。でもそれ以前からお年玉とか、お小遣いから増やせる方法考えて、いろいろしてたの。親が高校はでてからにしてくれって言うから、それを待ってるの」
 彼女はいつもと変わらない目の光でそう話した。その変わらなさに、彼女が今まで積み上げてきた決意の真っ直ぐさが伝わった。
「親御さん、よくオーケーしてくれたね」
「そりゃね。物心ついた時からの夢なんだから。いい加減で受け入れてくれた。幼稚園のときの将来の夢からそう言ってたから」
「そっか。気をつけて行ってきてね」
「もちろん。帰ってきたらお土産渡したいから、引っ越しや携帯を変える時は必ず連絡をしてね」
「わかった」
 いいながら、私は彼女がこれからも私の人生に絡まってくることを止めたいと思っていた。けれど言葉が出てこないまま、あっさりと予鈴は鳴り響いた。

一度目の十年、何も私を引き留めることがないように、細心の注意を払って過ごした。そうしなければ辿りつけるとは思えなかったのだ。誰かに縋ったら、もう動けなくなる。誰かが私に忘却を提案したら、私は自分を抑えて居られなくなる。そんな確信があった。十年は長いから。二度目が訪れるなんて知らなかったから。
二度目の十年、それは一度目の感覚とはまた違うものが混じっていた。私のなかを駆け巡っている。異物のような、私から生まれた感情だった。
 あなたの死に顔に対面し、あなたから本を譲り受けたこと。あなたのおばさんと定期的に会うようになったこと。図書館で勉強ではなく、図書室で本を読むことを選んだこと。そのために後輩は私に気付き、関係を作りはじめた。後輩の家族とも交流ができた。後輩が貸してくれた本によって、級友が私に関わるきっかけができた。
 私の毎日は、彩りを取り入れてしまった。
 母が私へ関わるかたちも、態度も、最初のものよりも寄り添う距離が近いように感じる。
 私は、十年後また死ぬのに。
 本当なら、すぐにでも死にたい。それを堪えて、必死に十年を生き延びられたのなら。もしかしたらまたあなたに会えるのではないか。死後の世界なんて不確かなものではなく、たしかに目に光が入り、中でやわらかく溶け、まわりを巡る事象があなたに影響を及ぼす。その影響に私も入っている。そんな夢のような時間が、また私の手に落ちてくるのではないか。
 そう考えたら、私の心が少しばかりはしゃぐことをとめることはできなかった。
 十年のうちの二年が過ぎていった。
 

 受験生であるというのに、私も級友もそれほど勉学に熱心にはならなかった。
 受験をしない級友はもともとだが、私にしても、テストの内容などは繰り返しであることが分かっていた。おかげでここまでのテストの点数もそれほど悪くはなかった。そのため勉強にそれほど熱心に見えなくとも、両親は何も口をだしてはこなかった。それよりも私が級友や後輩と出掛けたり、泊まり合うことを嬉しく感じているように見えた。
「先輩は気楽ですね」
 後輩が教科書に頬を重ねて、私を見上げていた。その目はすこし恨めしそうに、形をはしっこだけ凹ませている。家ではすぐに気持ちがそれるし、図書室は声を気にして質問をしにくいし、図書館はどこか今更行きづらいと言う後輩に付き合って、彼女の教室で放課後に勉強をみていた。彼女の前の椅子を借りて、横向きに腰掛け、後輩に遠慮して私も一応参考書を開いていた。
 それにしても、さっきから遅々として進まない彼女の勉強に、私は心の内で溜息をこぼした。
 もう夕暮れが消えていってしまう。部活動でもないのに教室を一つまるまる使いつぶし、煌煌と電気を付けていることに、落ち着かない気持ちになってきていた。去年までいた場所だというのに、追い出した人間に、建物はとても冷たい。
「先輩って、何組でしたか」
「三組」
「隣だ」
「その問題解けたら、もう今日はおわろう」
「えー」
「もっとやりたいの?」
「いえ、すぐ終わりたいです」
「私はかまわないけど、それじゃあこの時間分の電気代に申し訳ない気がする」
「学校なんですから、生徒にとっての居場所であるべきですよ」
「それは一般的な授業時間にかぎるんじゃない」
「差別だ」
「君の意欲の話なんだけど」
 教科書から顔を上げて、心持ち頬を膨らませてみせる後輩に、私は今度こそ溜息を吐いた。
「帰りに寄れないじゃない」
「え、先輩うちに寄ってくれるんですか」
「今日読む本がないからね。寄れたらいいなって思ってたんだけど」
「じゃあ、教えてください」
「さっき教えたことの応用で解けます」
「ヒント!」
 人差し指をぴんと伸ばして、彼女は私に突きつけた。教えを請うているようにはとても見えないと思いながら、私は彼女が解きあぐねている問題に目を落とした。放り出されていたシャープペンを持ち、数字を丸で囲んだ。文章に線を引き、記号にその線を結んでから、私を見つめている後輩の目を真正面から受けた。とんとん、と軽くシャーペンの先で問題の上を叩いた。そしてやっと後輩の目はそちらへ向けられた。
「先輩って、頭いいですよね」
「悪くないってだけだよ」
「将来何がしたいとかないんですか」
「なんで」
「だって」
 本当に分からなくて解けなかったのかと疑ってしまうくらい、彼女はすらすらとその問題を解き、私へと目を持ち上げた。解答をみて、「丸」と一言告げた私に、にっこりと後輩が笑った。
「じゃあ、うちに行きましょう」
 さっさと教科書たちを片付け、後輩は必要なものだけを鞄に詰めていく。私は立ち上がり、軽い鞄を持ち上げた。
 外を見ると、運動部だろう人影がいくつか、夕暮の落ちる中、片付けをしていた。暗く、表情はもう分からない。まだ若い肩の線が、白い体操着の下で制限を少しはみ出すように動いていた。
「先輩」
 後輩が準備を終えて教室の入り口のところで私を待っていた。
 私が近付くと、後輩は手早く電気のスイッチを切った。私の視界のなか、教室中の机や椅子たちが、一瞬で陰影をひっくり返した。




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