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「あたらしい朝に」(ちいさなお話)


 おばあちゃんは、毎日何かを書いていた。それはどこにでもあるような薄い青色のノートで、いつもそのノートを使っていたから、私は大きくなるまでおばあちゃんは魔法のノートを持っているのだと思っていた。使っても使っても無くならない、そんなノート。それをおばあちゃんに話すと、おばあちゃんは笑って「そうかもね」と言った。

 おばあちゃんはいつからか、ノートを一冊使い切ると私にくれるようになった。最初にそれを渡されたとき、おばあちゃんは何と言ってくれたのだったか。きっと秘密めかして、唇の前に一本指を立てていたはずだ。可愛らしく片目を瞑ってみせていたかもしれない。とにかくそんなお茶目で、どこか不思議なことを否定しないおばあちゃんが私は大好きだったので、貰ったノートも喜んで読んでいた。

 ノートに書かれていたのは、いったい何だったのか。母親から「何が書いてあるの」と何度も聞かれ、兄には「遺言とか書いてないのか」と半分冗談で言われたこともあった。そのどれにも私は、多分曖昧に笑ったように思う。何故なら全てのノートを読んだ私にも、おばあちゃんのノートに何が書いてあるのかを簡単には説明できなかったからだ。

 最初のノートを読んだとき、私は混乱した。単純に日記のようなものが書かれているのだと思って読み始めたそこには、いくつもの小さな物語が書き綴られていたからだ。火が暖炉から零れ落ち、様々なものを伝い―お爺さんの杖、パイプ、草に落ちては原っぱを舐めるように進む―結局最後には森ひとつを火で呑み込んでしまったり、居眠りをしている少女のスケッチブックに忍び込んだ影が、少女の描いた恐竜のような猫と戦いをはじめ、それは年月をかけて壮大な宇宙を巻き込むものにまで発展したり、詩人の口の端から昇った言葉たちが、世界の戦争を評論しはじめ、空一杯にその文字は広がり、たくさんのひとの祈りに中和されて、最後には言葉は虹となったり。唐突にはじまった物語は、力強い語り口に乗せられて結実まで、背中を押す力を弱めることはなかった。最初は、物語の形をとった暗号なのではないだろうか、とか、もしかして比喩を尽くしての日記なのじゃないか、なんていうことも考えてみた。けれど結局、これは物語以外の何物でもないことはそのうちに分かった。単純なことだけれど、描かれていることが、あまりに日頃のおばあちゃんの様子と結びつかなかったからだ。

 不思議だったのは、このノートを読むと、書かれていた内容を、私は夢に見るということだった。それも一つとして零すことなく、全てを映像として写すので、はじめの頃、一度にいくつも物語を読んだ私は、夜に混乱することになってしまった。物語の終りに何度も夢から放り出され、その度に首を傾げながらもう一度潜りこみ、また物語をなぞった後に放り出される、というのをくり返したのだ、一晩中。あの夜は、さすがに気が狂うかと本気で思った。それからは固く、一日に読むのは物語一つだけと決めている。

 おばあちゃんのノートに書かれた一番美しい物語は、年の瀬に春夏秋冬が神さまと集うというものだった。そこは花木に囲まれ、すぐそばには大きな滝が落ちる、少し開けた場所だ。桜にハナミズキ、ミモザにシデコブシと枝々に盛りを迎えた花たち、また下草の中から顔を出す沢山の花も、季節を問わずに咲き乱れていた。滝は流れ落ちているはずなのに、周りには潮騒が満ち、無限の花からは花弁が舞い散っていた。それに紛れて、粉雪も純白を添える。それが落ちてくる空は高く高く、青を深めているのだった。そんな不思議な場所で春夏秋冬は、白い衣に包まれた神さまの周りに揺蕩っていた。金と銀を同じ比率に混ぜ合わせ、月光と陽光によって色を広げていったような髪が、神さまの背を流れていた。春にはあらゆる色が咲いた花冠が与えられ、夏の肩に触れたあと、神さまの手からは芳醇な酒が溢れ出た。夏はそれを一番に口に受け、その喉が明るい光で満ちていく様子を、おばあちゃんは細やかに書き記していた。秋は重たい色の前髪をそっと開かれ、その向こうから差し込む神さまの微笑みを惜しみなく受けていた。冬はぼんやりと光るような手を包まれ、神さまに触れられたその指先から、静かに線をくっきりとさせていった。

 なんてうつくしい。目の前の光景に、おばあちゃんは「息をすることも忘れた」と書いていた。そしてそれを読んだ夜、私もまたこの光景を夢の中で体験したのだった。

 このあまりにうつくしい光景を私は忘れることが出来ず、大抵は一度読み、夢に見たものは読み返さなかったのだが、このお話だけは毎年、その年の終わりの日の夜に読み返すようになった。

 その夜の夢は、しかし年を重ねるごとに、おばあちゃんが書いていた様子から不思議と違うものに変化していった。

 神さまたちの集まった場所は、最初に読んだ時に感じた華やかさが徐々に鳴りを潜めていき、かわりにしんと漂う上品さが増していった。それは花の色、空の色、緑の色に染み込んでいき、お祝い事の雰囲気は薄まったかわりに、しめやかな祭りの儀式的な空気が満ちていった。

 おばあちゃんが亡くなった年の夢ではその空気は一段と深まり、私はいつもと同じようにその場所の空気に溶けていたが、空間を占めるものに含まれた尖りに、異物としてちくりちくりと刺されることになった。

 そんな微かな痛みのなか、そこではいつもの流れで春夏秋冬と神さまの交流がはじまっていた。流れは変わらず、神さまは春へと近寄り、小さな頭に花冠を授けた。しかしその冠に寄せられた花たちは、春の印象に合わない地味な色味のものばかりになっていた。続いて夏の肩を撫でた神さまの手からは、酒が溢れた。けれどそれは香こそ高く広がるが、山肌から染み出す湧き水のように弱弱しい一筋だけになっていた。そして受け取るべき夏の口も、小さくしか開けられておらず、光の粒は力なく夏の頬を濡らし落ちていくのだった。秋は前髪だけではなく、髪全体の内側が空洞になっているような枯れた色になっていた。それをそうっと撫で上げた神さまの表情は見えなかったが、受け取った秋の瞳の中には、深くに突き刺さる労りが写り込んでいた。最後に待っていた冬は、まるで呼吸を失っているように軽く見え、骨のような手は、見ただけで温度を失いそうに白かった。それを包んだ神さまのふたつの手も、またほっそりとしていた。両者の手は、お互いに何かを押し隠すようにじっと黙っていた。

 悲しみが滲む空気の中、私がこの光景を見るのは、恐らくこれが最後なのだと思った。

 おばあちゃんが書いてきたものは、いったい何だったのか。世界のどこかでひっそりと起こっていたことかもしれないし、物語りが不思議な力を呼び込んだのかもしれない。けれど、その力もおばあちゃんが死んでしまった後は、長く続かないのだろう。

 私は自分の身体もない夢の中、じっくりと春夏秋冬と神さまを見た。まわりの全てを自分の内側に匿うように、つよくつよく全てを見ていた。

 目が覚めた朝、私は泣き腫らしたように重い瞼を押し上げ、枕元に置かれたおばあちゃんのノートを手に取った。

 朝の空気は冷たく、古い家の中には静謐な氷が散りばめられていた。カーテンの布地の隙間を縫って入り込む光はあまりに純粋に磨かれ、ただ年を跨いだだけだというには、世界は突きつけるようにうつくしかった。

 私は手に取ったノートから、中に挟み込んでいたおばあちゃんの写真を取り出した。淡いような光の中、赤いショールを肩に掛け、微笑む彼女の中には、もしかしたらまた違う物語が生まれていたのかもしれない。

 いつの間にかおばあちゃんはノートを開かなくなっていた。それは手の筋力が弱くなったことがはじまりで、徐々に寄せられた視力の低下が最後の一撃として彼女からペンを叩き落としたのだった。

 おばあちゃんはお喋りな方ではなかった為に、ペンを走らせる音が消えてしまうと、まるで影のように静かなひとになった。

 最後の夜におばあちゃんと微笑みあったことを思い出す。おだやかに、あの秋の目に写り込んだ労りのような光が、おばあちゃんの目にも灯されていた。

 おばあちゃんは神さまに会っただろうか。あのうつくしい光の連なりのような髪を流した、神さまに。春夏秋冬にそっと紛れ、あの空気の一部に溶けたのだろうか。私はそれを、夢の中で見送ったのかもしれない。

 新年の朝、私は凍える冬の白の中、明るい温かな生き物として、淋しく、清々しく目が覚めたのだった。

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