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余情 34〈小説〉

 夏休みに入ってからは、一日の大半をバイトに費やすことも増えた。
 その代わりに、後輩とともに過ごす時間も、学校がある時よりもずっと増えた。
 後輩の家に遊びに行ったときには、数日後のことも分かりはしないと言ったのは私なのに、彼女が割り込ませてくる約束を、どれ一つも断ることが出来なかった。
 後輩のことを、どうしたいと私は思っているのだろう。そう考える度に、私の頭には白い靄が発生し、方向の決定を先送りにしてしまう。
 レジの空いた時間にブックカバーを折っていると、後ろに人の気配を感じて顔を上げた。そこには数日前の帰りにホームまでを一緒に歩いた彼がいた。
 少々驚いた気持ちを内に引っ込め、私は口端をあげて話かけた。
「どうかしましたか?」
 手元の折かけのブックカバーに目を戻し、私は彼の言葉を待った。けれど彼からは何も答えは返ってこなかった。聞こえなかったはずはない。ならわざわざ近くにきて、無視をしているのだろうか。そう考えて、もう一度声をかけようとしたとき、やっと彼は口が開いた。
「あのさ、いつも話をしてる学生さんって、後輩か何か?」
「はい、高校の後輩です」
 私は手元の折り目に集中するように気をつけながら、彼の話を聞いた。彼はそこから次の言葉を発するまで、また少し時間をあけた。彼の言葉は、不器用で素直な好意を感じるものだった。
 彼は、後輩のことをかなり前から認識していたらしい。いつも一直線に小説の売り場へ向かい、その手には必ず一冊が抱えられ、レジへとやってくる。最初は本が好きな子なのだと感心していた。意識をし出してから、彼女のレジをよくするようになり、彼女の読書の幅に驚くことが増えた。興味をもって、レジの時には彼女の買う本を見るようになり、いつの間にか、彼女の買う本を予想するようになった。それが当たれば喜び、外れても新たな作品を、そして彼女の一面を知ることができたのだと喜んでいた。そのまま、彼はいつか、彼女と話をしてみたいと思うようになっていたのだそうだ。
 聞きながら私は、それはとても自然な話だと思った。
 つまり、彼は後輩との仲を私に取り持って欲しいと言いに来たのだ。
 その場は、ちょうどレジにお客がやってきたことで、有耶無耶になった。
 けれど、去って行く彼の目が一瞬私に投げかけた真剣な色からは、本心から後輩との関係の進展を願っていることが伝わった。
 私は残りのバイト時間を、どんな顔で通したのか。
 彼が私よりも早めに上がることを知って、心底ほっとした。
 後輩と話をしてみたい。
 その願いを叶えることは、それほど難しいことではないだろう。問題なのは、たしかな好意を持っている人間を、私が紹介することは、彼女にとっていいことではないだろうということだった。
 私でも、それくらいの機微は分かる。
 けれど、バイト先の人間関係を考えると、気が重たかった。どう言えば彼に気まずさを与えずに済むのか。
 私は帰り道の間中、そのことを考えていた。
 そして明日はその後輩に会う約束をしていたことを思い出し、思わず溜息が漏れたのだった。
 月を浮かべた夜空は涼やかに見えるが、下界は蒸し暑さで息苦しかった。
 夏休みの夜更けに、歩き回る学生たちの肩を目にする度に、私は後輩を思い浮かべてしまっていた。

 後輩に彼の話をしないまま、数日が過ぎた。
 夏休みに入った時期は二人とも殆ど同じだった。
 私は彼女に条件を出していた。夏休みの間、私は出来る限りの時間を後輩との時間に当てる。代わりに後輩は、私がバイトをしている時間は、勉強を頑張るように、と。
そのため彼女が私のバイト先へやってくる頻度は、ぐんと下がることになった。彼はそのことに気付いてはいるようだった。
後輩をバイト先に来させないようにと、勉強という交換条件を出したわけではなかった。けれど、その気持ちが全くなかったかと言えば、それは嘘だ。私は彼女に、彼と会って欲しくないと思ったのだ。それは職場での自分の居心地を悪くしないようにというだけではなく、彼に対して後輩が興味を持ってしまうことに、気持ちが揺れたからだった。
「最近、あの子こないね」
 だから、私がレジに入る時間にまたやってきた彼に、その話を出された時は心臓が少し逸った。レジ下の整理をすることで、私は彼に顔を向けない理由をつくりながら
「そうですね。彼女、受験生なので、この時期は勉強を頑張っているのだと思います」
と言い訳を口にした。
「そう。そうだね。頑張って、って伝えてくれる?よく知らない俺が言っても、気持ち悪いかもしれないけど」
「ありがとうございます」
 レジカウンターを出て行く彼の背中を見ながら、私はどうするべきか考えていた。
 昼下がりの、店が一番落ち着く時間帯だ。彼も大学の休みの間はシフトを多めに入ることになったと聞いた。夏休みだから働きたい人と、夏休みだから自分のしたいことに集中したいという人。この職場はそのバランスがちょうどいいくらだった。パートに入っている主婦の人たちは、この時期は休みを取る人が増えるので、どちらかというと働きたいというと歓迎してもらえる。私も入れる日は朝のうちから入ることが多くなっていた。いつもの仕事とは違うので、覚えるまで緊張もあったが、始まってしまえば自然と立ち回れるようになっていった。違う時間帯の人たちとの関係も、今のところ問題はなかった。
 彼のこと以外は、まったく問題のない仕事環境だった。
「最近、よく話しかけられていますね」
 シフトを長く入るようになると、休憩時間も増える。誰かと一緒に休憩に入る時間もあって、彼女とは今日はじめて一緒に休憩に入った。私が働き始めに挨拶をした時、「あなたと働くと思っていた」と言っていた人だ。  
彼女は朝に入ることが多く、今まではあまり関わることがなかった。栗色の明るい髪の毛を後ろで一つにまとめ、いつもピンク色の唇をしている。元々が背の高い人だけれど、仕事用のシューズもインヒールのものを履いていて、横に立たれると大抵の女性より頭半分が飛び出す形になる。面接の時に、シューズはヒールのないものをと言われたけれど、そこまで厳しいものではないのかもしれない。彼女とは、今までは交代の時間に入れ違いになるだけだったけれど、そのたびにきちんと目を見て笑顔を浮かべてくれる人だった。
「もしかして、迫られてます?」
 そう冗談めかして彼女から聞かれた時、私はなんと答えたらいいのか分からなかった。私が迫られているわけではなかったし、後輩へのことに対しても、迫られているというような印象は受けなかった。しかしその話をすると言うことは、彼の個人的な付き合いの話を他言してしまうということになるのではないか。私は、曖昧に笑いながら、本の話や、お客のことへ話題を逸らした。彼女はそれを不快に思う様子もなく、逸らした話に乗ってきてくれた。話をしてみると、やはり彼女は誰からも好かれる人なのだろうと感じた。話し方が丁寧で、きちんと相槌を打つ時は目をこちらへと向けてくれる。そういう細やかな対応が積み重なって、良好な関係を回していくのだろう。
「この職場は長いのですか」
私の問いに、彼女は摘まんでいたお菓子を放り込みながら頷いた。
「そうそう。もう三年かな」
 彼女は突いていた頬杖を解き、腕を机の下にしまって、私を真っ直ぐに見た。
「あのね、私、彼と同じくらいにバイト入ったの」
 彼というのが、後輩に好意を持っている彼だと気付いたのは、私が「はあ」と返事にならない声を漏らしてからだった。気付いてから、私は大袈裟にならない程度に背筋をのばした。
 彼女から零れる言葉たちは、なんだか彼がこの間私に零した言葉たちと、とても似て見えた。きらきらとしたものが混じり、隠そうにもその色の優しさが時折光に反射してしまう。こぼれ落ちてしまうことがもったいないくらい、その反射は私の胸を打った。
 あなたの顔が、空間に漂う微細なものを繋げてそっと浮かび上がった。それは瞬間的なもので、私は自分が息を止めていることに気付かなかった。
 休憩がもう終わることを彼女の携帯のアラームが教えてくれたとき、私は短く、深く息を吐いた。細かく手の指先が震えるほど、私は気持ちが揺れてしまっていた。
 このままではいけない。
「あの、私、お手洗いに行ってから戻ります」
「うん、分かった。先に行ってるね」
 彼女と手早く休憩室の机の上を整えると、店のスタッフ用のエプロンを身につけた。彼女は小さく手を振って、ドアを出ていった。私は引き攣る口元を放りだし、休憩室に備えられている洗い場に向かって体を回転させた。
 すぐに蛇口をひねり、白いシンクの隅に浮かぶ水垢のオレンジを睨みながら、呼吸を整えた。両手に掬った水で、顔を洗う。大してしていない化粧が落ちていく。ごしごしと、力を込めて顔を何度か洗い、手で落とせるだけの水気を取った。机の上に置いてある鞄の中からハンカチをとって、また力をいれて顔を拭いた。ファンデも眉も、口紅も、何も付いていない顔で、私は休憩室を出た。前髪がまだ少し湿っていたし、休憩から戻ったことを伝える声は固かったかもしれないが、気にしていられなかった。
 その日のバイトを終えて、私はすぐに後輩へと電話を入れた。後輩は数コールで電話に出た。私が出来たら外で会いたいと伝えると、何かを感じたように、彼女は努めて柔らかく、了解をくれた。私は、前に彼女と待ち合わせた喫茶店で待っていると言い、電話を切った。
 外は、もう夕暮れも終わりかけの頃だった。夏の夕暮れは遅い。そこでやっと私は時間を確認した。夜の七時を過ぎたところだった。後輩が今夕食の最中だったら、などと考える余裕がなかったことを反省した。
 駅を出ると、通いなれた街路樹の下を歩く。葉が茂り、下草が背を高くしていた。そのうちこれを刈る音が響くのだろう。毎年、ある日突然威勢良く緑は勢力を広げるけれど、それが幻であったかのように、同じくらい突然にその姿は消え去る。人は緑の形にまで理想があり、規定があり、はみ出ると跡形もなく視界から消し去ってしまう。それに何も感じずに生活を続けてきたけれど、手の甲に時々葉先を当てる夏草に、私は今はじめて気持ちをなだらかにしてもらっていた。この草は、そのうち刈られるのに、誰にでもその葉先を振ることを、いとおしく感じた。
 私は、いつの間にか涙を流していた。視界が悪いと感じ、瞬いた時、音がしそうなほどに大きな一粒が地面へと落ちていった。視界の端で、砕ける雫の姿が鮮明に浮かんだ。
 私は、あなたを愛している。
 その事実が突き抜けて、私を私のままでいさせてきた。あなたを想うことが私であり、そうではなくなったのなら、私の価値などないと切り捨てる気持ちでいた。それなのに、今の私はどうだろう。私の中の嵐が消失したというわけではなかった。それなのに、世界にはきちんと色も感覚も美しさもあった。一度目には思い煩うことは殆どなかったのに、今の私の中には、たくさんの糸が役割をもって張り巡らされてしまっていた。なんだというのだろう。あと数年で、私はまたあなたを追って死ぬというのに、私は何を感じようとしているのか。何を追いかけようとしているのか。私の中に、確かに実像を結びつつあるもの。これを私は見て見ぬ振りを続けてしまったけれど、これは裏切りなのではないのか。だって、これでは。
先輩_
 彼女の声が、すぐ近くで聞こえた気がした。はっと、思考の中から顔を出して、視界の感度を上げた。
 もう殆ど夕日は食らい尽くされ、青と闇の混じりゆく空が、私の上にあった。私は、ぼんやりとしていた頭を振って、いつの間にか止まってしまっていた足を動かした。後輩の姿はまだなかったが、彼女の声が、また一度、頭の奥へと割り開くように響いた。

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