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余情 27 〈小説〉

 息が白く凍える毎日、分厚いタイツで足を包みながら、熱が薄くなっていく指先を何度もこすり合わせた。
 バスの時間が迫っているのに、どうでもいいことを何度もくり返してしまう。黒いスカートは膝を包み隠し、グレイのショートコートは重たい。丸っこい黒いプラスチックのボタン。取り外せるフードを外したのは昨日の夜だった。
 突然に思いついて、出掛けたくなったのだ。
 あなたの骨がある場所に。
 あなたの家は、病院からそれほど遠くはない場所にある。電車で行こうかと思っていたが、調べてみたらバスで行くほうが近くに下りられるし、病院からよりも道が分かりやすいことが分かった。
 あなたのおばさんに言えば、連れて行ってくれたかもしれない。
 けれど私はただ、あなたの骨のそばにいきたくなっただけなのだ。それ以外の誰かを、この関係の間に置きたくはなかった。
 玄関を出る時、母が不思議そうに私を見た。
「今日は学校休むの?」
「うん、受験生だから」
「そう」
 母がその説明で誤魔化されてくれたのかどうかは分からなかったが、それ以上引き留める気持ちはないようだった。ただ一言、「お昼はどうするの」と聞いただけだった。
 いつもは素通りするバス停に立ち、ぼんやりと道路の向こうの、塀に止まっている鳥を見た。黒い尾が少しながい。まん丸の目。小さな頭があっちこっちへ向きを変え、その動きと、まわりの空気の平穏さがかみ合わない気がした。鳥の生きている場所の平穏の速度なのか、そもそも私の見ている穏やかさが、鳥には関係の薄いものなのか。
 バスがやってきて、大きな音をたてて停まり、ドアが開いた。ステップを上ってバスの中を見渡す。もう学生の姿はなかった。このバスが回る路線のためか、空いた席が目立った。一番近くの、一人掛けの椅子に座る。大きな窓に、うっすらとうつる自分の姿を眺めた。
 バスは走り出し、私の体はバスに合わせて揺れた。
 あなたのおばさんに一度、あなたの家の前に連れていってもらったことがあった。白い壁には所どころ罅が小さくはいっていた。青い屋根の二階建ての建物は、静かだった。花を植えていたり、可愛らしい飾りを置いてみたりということが一切ない。いっそ他の家々を拒絶するように、寒々しいほどに家単体で存在していた。
「あの子の部屋はあそこだったんだけど、今は姉さんがお客さん用の部屋にしてしまっているわ」
「いつからですか」
「あの子が亡くなって、すぐかな」
 寝る間も惜しんで、あなたの母親は部屋を片付けたのだと聞いた。その場で意識が切れるように睡眠を挟み、あなたが生きていた間に集まったものたちを、次々と仕分けていったのだと。
 もともと母親が物を持たない人だったから、その影響で自分も物をあまりもたないのだと、あなたは言っていた。
執着を禁じること。
 そんな方法で、あなたの母親はあなたを失ったあとの時間を、出来るだけ早く切り上げたいと思ったのかもしれない。
 バスがいくつかの停留所を走りすぎ、大きな道にでた。街路樹に取り付けられた電飾。店の硝子に描かれた雪のマーク。歩道を歩く幼い子の手に嵌められたミトン型の手袋。それをそっと繋ぐ大人の手といっしょに、ゆっくりと揺れている幼い腕。
 硝子に映った自分の目を見ていたはずが、いつの間にかその目の奥にひっそりと座していたもののところへたどり着いていた。その貧相な肩を見下ろす。冷たい場所にへばりついて、どこまでも見苦しい。それをもっと奥へと追い立てようとした時、アナウンスが私の下りる停留所の名前を読み上げた。
 指先がブザーを押す。
 ゆっくりとバスが止まり、出口が口を開ける動作に、私は引っ張られるように立ち上がった。用意していた小銭を現金投入口へ放り込む。ステップを下りたのは私だけで、そこは住宅街の真ん中だった。
 一歩進んだ私の後ろで、大きな音をたててドアが閉まった。携帯の地図を取り出して、前に来た時の記憶を呼び起こす。
 歩き始めながら、この場所にあなたが生きていた時間が残っていないかと視線をさまよわせた。
 時間は、前に進むだけのものではない、と聞いたことがある。後ろに、斜めに、行ったり戻ったり。そうして幾筋もの糸のような線が重なって、織り上げられて時間は存在しているのだと。だとしたら、ここにもその時間は戻ってきていたりしないだろうか。懐かしい場所に、あなたの時間は。
 朝は晴れていたけれど、空は少しずつ曇り始めていた。雨が降ることはないだろうけれど、この季節の曇り空は、確実に空気の温度を下げる。手袋をしないまま来たことを、少し後悔していた。
フラットなブーツの底が、アスファルトの上で乾いた音をくり返す。そうして数分、私は迷うことなくあなたの家を見つけた。あの日、見上げた青い屋根は、色を変えずにそこにあった。あなたの部屋だった場所の窓を見上げた。あなたはあの窓から何を見ただろうか。そしてふと気付いた。窓に、小さな花瓶が置かれている。そこには花が差されていた。黄色と、青の花。高さが少し違う、おそらく種類も違うだろう花。
 それが何故か私の胸を大きく打った。
 薄日の満たす、あの日と変わらない静かな家。あなたのことを忘れたいと、あなたの母親は思っただろうか。それとも忘れたくないと心が荒波を立てただろうか。分からなかった。
 そしてもう一つ、変化を見つける。玄関ドアから伸びる三段の階段に、鉢植えが置かれていた。その中で背の低い花が揺れている。そこだけがこの空間の中でぽっと明るく、光量の密度が違う気がした。光がその花の命にそっと寄り添っているような、そんな気がした。
 あなたを、お墓に入れてはくれなかったひとたち。あなたの骨をこの家に閉じ込めて、私には対話の時間もくれない。そんな場所に、そんな人たちに、光はやさしく寄り添ってくれるのか。
 どうしようもなく、顔が熱くなった。それは涙が上ってくる合図だと私は知っていた。
 あ。
 そう思う間に、涙が流れた。そして呆然とした私の前で、ドアは開いた。今まで想像もしていなかったことだけれど、当たり前のことだった。
「あ」
 声が漏れて、とっさに涙を拭うことも出来なかった私を、あなたの母親は見た。その目には見覚えがあった。私をはじめて見たときのあなた。驚きと、少しの覗うような気持ち。そしてもしかしたら、という期待のような、希望。あなたの母親は、あなたによく似ていると思った。
「あなた、あの子のところによく来てくれていた」
「はい、あの、はじめまして」
 私は大きく鳴り始めた心臓を抑えるように、胸の前で手を握りしめて答えた。私の方はあなたの母親を何度か目撃していたけれど、いつでも物陰に隠れてあなたとの時間を見ていただけだった。本当に、こうして真正面から目を合わせることははじめてのことだったのだ。
 あなたの母親がふと空を見上げた。
「よかったら、あがりますか」
 そして私に向かって、そう言ったのだ。

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