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日記エッセイ『便座って、消耗品ですか?』#2(2022/3/29)


このnoteにいる人はみんな文章を書くことや読むことが好きなんだろうなぁ
そう想像するけれど、自分が文章を書くのがなぜ好きになったのか。
ちょっと考えてみた。

1.書くことの悦楽…僕のショナイのひそひそ昔話

 僕は何事も形から入るほうだ。だから書き始めるまで時間がかかった。今でこそパソコンやスマホが普及し、世の中が実感として感じる以上に”活字がこれほど身近になった時代はなかった”ように思う。僕の部屋(六畳)にもまるで大作家(ごっこ)のようにWindowsとMacが置いてあり、いつでもネットワークに飛び込むことができる。現在では「書くという行為の結果としての善悪の判断」の議論は今は別にして、事実としてネットを通じていつでもどこでも”発信”することができる時代になった。

 それだけに、お金を出して紙媒体の本を買う文化はネット以前と比べてしまえば、時代の盛衰によって消費者である読者は自由閲覧度が高く、場合によっては活字においてもサブスクリプションのような定額購読でのネットの読み物に流れてしまうのはどうも致し方ない気もする。…気もするが、僕個人の考えとしてどちらも欠かせない媒体であり、僕自身は共存を望んでいる。
 ご存じのように紙媒体だって指をくわえて傍観しているわけではなく、もちろん、行きつけの書店を眺めてみれば紙媒体もインターネットやDVDなどのメディアミックス戦略による試行錯誤や進化は続いているようだ。

 モノを書くメディアという話では、インターネット老人会のような話になってしまうが、僕が中学生くらいでWindows95が発売されるまではワープロやパソコンはとにかく高級品で、機能としてもインストール作業も複数のフロッピーディスクでガチャガチャするようなタイプだったこともあり、今のように取っつきやすいマシンではなかった。小学生や中学生の感覚ではあくまで”大人向け””業務用”とでもいうか、今僕が大人として振り返ってみても、よっぽど先進技術教育に理解のある親か、裕福な家庭の子供でない限り、とてもじゃないが安月給のサラリーマン共働き家庭の小学生や中学生が持てるものではなかった。
 だから少なくとも僕と両親の関係のうえでは、とてもではないがパソコンをねだることなど出来ようもなかった。だから文章や原稿を書こうと思うとワープロより原稿用紙に、流行り始めのジェルボールペンを使って書いてみたりしていた。判然そのほうが気持ちを描くことができ相手に伝わるだろうとも考えた。僕の場合文章を書くその姿勢の原型はまさに同級生で吹奏楽部に所属していたS子に対する「初恋のラブレター」にある。

2.初恋のラブレターと物書きとしての自我のめざめ

 話はずれるけれど、私の健康面に関することの詳細はいつか書くことにはなろうが僕は生まれつき体が弱く、その体質や幼稚な精神性は大人になってもバッチリ引き継がれている。そもそもこどもの頃から無理に大人ぶって性格も素直ではなく、病的にがっつり”あまのじゃく”な方だった。
 個性的とも取れなくはないが、個性的というにはあまりにも独善的な少年だったように思う。そんな僕だから、周囲からの強いひんしゅくや反感を買い、僕は僕で学校に対する不適応を起こし、小学校高学年から中学校卒業までは僕は学校に行かずに通した。結果的に親や学校を巻き込み憲法で保障されている"義務教育"に逆らうことになるのだから。

僕の中では勝手に、これは不登校ではなく、
これは、”登校拒否”だ、と頭の中で変換し、そして自認しながら。

中学2年生の春。
そんなときだ。S子から「学校に来なよ」という手紙をもらったのは。
僕は昔からそもそもモテるタイプの男子じゃないから、
それはそれは舞い上がった。

今思えば変な噂になってはいけないだろうというのもあったのだろう。
”クラスの誰にも言わないでね”、とのお願い付きだった。

 何度も何度も書き直しては気を引くための文章をこどもなりに何度も推敲し、彼女の気を引こうと文房具屋でなけなしのお小遣いで買った猫の便箋。その書き損じをゴミ箱に投げ捨てた。ボールペンだから、便箋との気の抜けない対峙、一度きりの勝負だ。満足のいく内容にならなければ渡せないから音楽をかけながらテンションを揚げて徹夜で書き上げた。

 初恋あるあるだけれど、こういうラブレターや詩や散文、気のある人に向けた音楽といった類のものは、たいていの場合日の開けた翌日の朝には気恥ずかしくて度胸が萎えて、渡せなくなってしまうものだ。振り返ってみても気恥ずかしくてその内容の輪郭を描くことすら憚られるけれど(苦笑)

未熟な僕がラブレターを、しっかりと完成させたとき、
”僕にもう少し魅力的な文章を書くセンスがあれば”
はじめて自意識の中でそう思った。

 もちろん、もし生まれつきのセンスという原石があっても、原石を磨く努力なしに生まれつきのセンスだけでは余程の天才でなければ到底生き残れないのは、この時点では初恋のお熱上昇中の当時のきっと僕は気づいていない(苦笑)

普通は中学、高校、大学、社会と進んできて、普通なら自分の身の振り方を考えるときになったら、わが身を振り返って、スクラップアンドビルドして考えるもののようだけれど、身体的にも精神的なつくりとしてもトロい僕がここまで咀嚼して考え抜くようになったのは中年男性として落ち着き払った状況になったここ最近のことである…。

こうして”文章表現が好きな少年”へと繋がる”種”がまかれた。

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