万年鬱は病気じゃなくて性質だ

幼い頃は確かに、
そもそもの概念がありませんでしたから、
楽しく遊んで好きなものを食べて
欲しい物を手に入れて、
そりゃあ楽しく生きていましたよ。

学校で、生活の授業があるじゃないですか。
その頃は概念がありせんでしたから、
わからないけど習っている感覚でしたね。
音と記憶で頭に残るので、
理解するのは何年も後という感じです。
まあさすがにもう、覚えてはいませんが。

生活の授業から道徳の授業に変わるじゃないですか。
いじめや差別などの倫理や、他には哲学的なこと、
いろいろ習うじゃないですか。
子どもは無知で残酷ですから、
無自覚に嫌だと思った相手を攻撃します。
だから大事な授業だと思いました。
だけど同時に、生死の概念が生まれました。

私が生死について問答し、今でも感じていること。
「生きてる意味って何?」
小学4年生の頃でした。
私は親に質問したことがあります。
「頑張って結果を残しても、死んだら意味なくない?」
親はこう答えました。
「本人が亡くなっても、結果は未来でも評価される」

ここから先は、個人の価値観の問題です。
例えばピカソなんかは、
亡くなってから評価され始め、今では有名です。
絵の価値は高く、嫌な言い方になりますが
かなりの高額の収入が見込めると思います。
何年も前の、実物で見たことも会ったこともない人が、
知識として自分の中にあるんです。
親の言ってることは間違ってはいないと思います。

ただ、価値観です。
私は承認欲求の塊とも言えるのでしょう。
まだ生きているうちに賞賛されたなら良いでしょう。
死んでから評価されても本人わかんないじゃん………。

本当に好きで堪らなければ努力もできるし
続けていくことも可能だと思います。
でも私には、そこまでして続けたいことが、
何も思いつかなかったのです。
それは今でもそのまま変わらず。
もちろん趣味や好きなことはありますよ。
寝る間も惜しんでやりたいか?
疲れていても絶対にこれだけはやっておきたいか?
それほど強く好きなのか?
そう問われると、答えはNOです。
所詮はその程度なので当然、
努力も続けていくことも、私には困難でした。

それでも「経験」という財産はありますから、
もし成功するとしたら、大器晩成型でしょうね。
評価されるのも死んでからか、
それとも死ぬ間際になるでしょう。

例えば何か新しい発見をして評価され、
それが未来永劫役に立ち続ける知識だとして、
死後の私はそれを確認することはできません。
私はそれがとても、面倒くさいことだと思いました。
歴史上の偉大な人たちは知っています。
彼らの働きが今の技術に繋がっていることも
理解します。
ただ、私がそれを受け取ることができない。
ただただ面倒くさいことだと思いました。

まあそんななので、生きていたくないんですよ。
「死にたい」のではなくて
そもそも「生まれてきたくなかった」が正しい。
いろんな家庭事情で生きてきた人たち、
家庭は円満だったけど憂鬱になってしまった人たち。
彼らからの声をよく目にします。
「親の快楽のために生まれさせられた」と。
本当にその通りで、
意思形成のできていない状態の人間には
選択権がないんですよ。

私もいい年なので、
自分の世代が親になっている人は多々おりまして、
同世代からの、家庭の失敗、
子どもへの接し方の失敗の声。
そんな話は聞きたくありません。
じゃあ最初から、作るなとしか思えません。
きつい言い方ですが、死んで詫びろとさえ思います。
私は親目線の気持ちは何もわかりません。
親になりたくなくてその道を選びましたから。
だけど、子ども目線の気持ちはとてもよくわかります。
もちろん十人十色なので全てではありませんが。

なんでこんなやつが子ども作ったん???
って思う人が多すぎます。悲しいです。
生まれさせられた子どもがかわいそうな思いをするから
「作らないことが1番子ども思い」
という考えは正しいと思っています。

私の鬱は子どもの頃からの概念と価値観なので、
病に侵されて今正常な考えが持てない一時的なもの、
ではなくて、私のそれは、
「希死念慮」ではなく私の価値観なのです。
楽しい時期もありますよ、人生いろいろありますから。
幸せ絶頂期、楽しい時間を過ごしていても、
私は「生まれたくなかった」
「だから死ぬんじゃなくて消えたい」
「最初から無かったことにしたい」
この気持ちはいつも隣に寄り添っています。

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