お風呂の貧しい入り方について

日曜の夜、お風呂に入りながらぼんやりと考えていた。私が思うに、風呂に入っている瞬間こそ、日常のつまらぬすべての出来事から解き放たれて、リラックス・・・、もっとも自由になれるひとときではないだろうか。にもかかわらず、なぜ私は、風呂に入ってまでも仕事のことを考えてしまうのだろう!?

実はこの問題は、かねてよりずっと自分の中で個人的に問題視している事柄であった。例えば温泉などに出かけ、時に気持ちのよい夏の夜風にあたりながら、時に降りしきる雪の白さに見とれながら、大地の底から湧き出す恵みの浸透圧に身を浴しているとき。こわばった体を、疲れ切った身体を、湯が解いていく。ああ、これを極楽と言わずしてなんというのだろう・・・「無」の境地が訪れる。そして、次に気がついたとき、私の頭の中を支配しているのは、仕事や会社内での出来事なのである。

あのプロジェクトのとき、なぜあの人はあんな物言いをしたのだろう。来週の月曜日には、この準備に取り掛からねばならないだろう。先週、あのような出来事があったけれど、私は周囲からどう思われただろうか・・云々。

仕事や会社のストレスから解放されるための場所においても、そのことが頭から離れない(ことが多い)。私は、非常にこのことを問題だと考えている。つまり、私は、よほど仕事や会社以外に興味関心がない人間なのではないかという疑いを抱くのに十分すぎるほどの事象だからである。会社に入っておよそ15年、私はなんという人間になってしまったのだろうと、哀しくもなってくる。

それと同時に、貧しくないお風呂の入り方、言い換えれば豊かなお風呂の入り方とはいったいどのようなものなのだろうとも考える。平安貴族ではあるまいし、まさか短歌を詠むわけにはいかないだろう(もちろん詠む行為自体は否定しないが・・)。少なくとも、私が風呂に期待する効果、すなわち、日常生活や仕事のストレスからほんのひとときでも解放されたい、という効果が果たされる必要はあるだろう。

1つ思い当たることとしては、「趣味」である。趣味について没頭して考えるのである。例えばテニスが趣味だとしたら、今度の日曜はこんなプレーができるようになりたいとか、もっとうまくサーブするにはどうすればとか、テニス仲間のAさんに贈る日本酒は何がいいかとか・・。「仕事」以外の事柄で、ついつい考えたくなってしまうようなこと、想像したら楽しくなるようなことがあれば、もっとお風呂に入っている時間が豊かになるのではないだろうか。

だからこそ、そのような「趣味」を持ちたいものだと数年来、考えている。例えば最近で言えば「日本酒」であり、「発酵」であり。「読書」であり「ドラマ」であり、「音楽」であり。自分の世界を広げたいとは常々、考えているのだが、それでもしかし、いまだに風呂時に仕事について思わず考えてしまうということは、「無趣味」の領域にまだ止まっているということなのだろうか。

一方で、このような考え方もできる。いまのこのお風呂の入り方こそが決して貧しいものではなく、むしろ豊かなのだと。つまり、仕事のストレスや不安から解放されたいという目的が、実は達成されているのではないかという説。

暖かいお湯に身を委ねると、体の緊張が解けていくとともに、心も解放的になってくる。そのとき、心の中で不安に思っている1つ1つの出来事が、泡のように心に浮かんでは、パッとはじけていく。実は、風呂に入ることで、不安やストレスに感じていることが1つ1つ具現化、形になったり、言葉にされていく。そして、その”かたち”をまじまじと見つめることで、そこから解き放たれていく・・そんなプロセスを経ている可能性があるのではないかということだ。ざっくりいうと、お風呂に入ることで、心がじんわり整理されていくというような・・。

もちろんその可能性はあるだろう。温泉でなくとも、入浴行為自体に抑鬱効果があるのだと聞く。とにかく、湯に身を浸せば、体だけでなく心も軽くなるのだ。そのプロセスの中で、どんなことが頭にもたげてこようが、関係ない。

とは言え、風呂に入っているときくらいは、やはり仕事のことは考えたくないのだ・・・、と最初の問いに立ち帰ってくる。いっそのこと、仕事の不安やストレスがなくなれば、仕事について考えなくなるのだろうか。ということはつまり、仕事を辞めるしかないということか・・・。

今夜もまた、お風呂の中でそんなことを延々考えていると、程よく汗もかいて、梅雨に入ったばかりという北東北の夜風がわずかに空いた小窓から差し込む。結局、今日も答えは出なかったが、頭もボーッとしてきて、気持ちよく眠れそうなことは間違いない。おやすみ、日曜日。

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