見出し画像

募金する感覚で、いつかきっと自殺する。

コンビニへ行って買い物をしたとき、もらったお釣りをたまーに募金箱へ寄付をする。そのとき、頭の中では特になにを考えているでもなくて、ほんと、なんとなく。寄付をするというより「寄付をした」という概念だった。

どこの、誰かの、なにかにそのお金を使われるのかも知らないで、目的や意味や大義もなく寄付をする。そんな感覚で、いつしか「ふらっと死んでしまうのだろう」という概念が芽生え始める。

「死ぬことより生きることの方がこわくなってしまったら死ぬのかもしれない」という言葉をSNSで見かけたことがある。自分は、自殺のきっかけはどうなるんだと考える。考えて。考えて、タイミングなのかなって。

空が青くたって、電車の中で赤ちゃんが笑ったって、お気に入りの傘を買った次の日が雨だって、人は死ぬ。いつか失う。どんなに幸せでも結局死ぬときは死ぬ。だから、募金箱に寄付をしたその日に、なんとなく自殺するかもしれない。

フリーランスを始めてから収入はないにも等しい。一時期は有料noteで預金残高、月収を晒そうかと思ったけど自分自身が辛くなるだけだ。友人と遊んだり、話したり、おいしいものを食べても、寝る前にお金がないままこの先を生きていけるのかと不安になる。

誰が奢ってくれた。誰がnoteを購入してくれた。誰が創作物を買ってくれた、読んでくれた、感想をくれた。誰が遊んでくれた。そんなことを紙に書いて、心のどこかでは信頼度や優先度を可視化する。自分に恩恵のある人にしか大切にできない。たまにそんな感覚が嫌で嫌でたまらなくなる。

伊坂幸太郎の『砂漠』にこんな台詞がある。「募金箱を抱えている人が、実は詐欺師かもしれない、なんてね、そんなことまで勘ぐってどうするんですか。寄付してやればいいんですよ、寄付してやれば。偽善は嫌だ、とか言ったところでね、そういう奴に限って、自分のためには平気で嘘をつくんですよ」と。

なんとなくで募金したお金が、どこの、誰かの、なにかにそのお金を使われるのかも知らないで、目的や意味や大義もなく寄付をする。自分の知らないどこかの誰かが、自分の知らない場所で少しでも幸せになるのなら。そう思いながら、いつか、きっと、自殺する。

それは諦めでも願望でもなくて、そういうタイミングなんだろうと。今日も、お金がないのに募金箱へ寄付をした。

この記事は有料ですが全編公開になっています。私の活動を応援してくださる方がいましたら投げ銭してくれると嬉しいです。また、サポートやスキのチェック。コメント、フォローをしてくださると喜びます。創作関係のお仕事も募集していますので、どうか、よろしくお願いします。

ここから先は

0字

¥ 300

改めまして、秋助です。主にnoteでは小説、脚本、ツイノベ、短歌、エッセイを記事にしています。同人音声やフリーゲームのシナリオ、オリジナル小説や脚本の執筆依頼はこちらでお願いします→https://profile.coconala.com/users/1646652