見出し画像

『不要不急』から「主体性」を考える【感想・書評】

異色な表紙

仏教僧侶10人が書き手となり、「不要不急」をテーマに論じている異色の新書。何が異色かというと、その表紙だ。

画像1

何人かの僧侶が書き手となっている本はいくらでもあるけれど、この本では表紙に全員いる。基本的にブックカバーをつけていないけれど、今回はつけようかなとも思った。不敬だと言われてしまうかもしれない。いや、秘仏のように崇めているが故だ。

さて、この本を読んで目を引いたのは藤田一照さん横田南嶺老師。どちらも禅宗で、教化も行も最前線のお二人だ。ちなみに藤田一照さんは曹洞宗で、横田南嶺老師は臨済宗。最近は教科書で両方「禅宗」とまとめられているらしく、ちょっぴり不満を感じてもいる。

藤田一照さんの「主体性」

さて、この藤田一照さんの議論を見てみると、なかなかに厳しい。「おまえはちゃんと主人公として、主体性を持っているのか」という切り口で攻めてくる。

宗教というのは人の主体性(瑞巌和尚の言う「主人公」)が問われる世界です。今回の「不要不急の外出自粛」の要請は、その言葉を考え出したり使ったりしている人たちの思惑をはるかに超えて、「あなたにとって必要至急である本当の要求とはそもそも何なのか?いのちの奥底から湧いてくる切なる願い、あなたにはそれが見つかっているのか?」と、極めて宗教的な問いをわれわれに突きつけているのです

ちなみに瑞巌和尚とは、鏡に向かって「主人公」と呼びかけ、自分で「はい」と答え、「目を醒ましているか」と呼びかけ「はい」と答え、「人にだまされるんじゃないぞ」と呼びかけ、「はい」と答える、というのを毎日行っていた禅僧のこと。

人は食べられないと餓死するが、食べないと断食となって元気になる。『自らの意思』で、食べないことを選び取れば不養生は養生に変えられる

これは野口整体創始者の野口晴哉さんの言葉らしいのだが、これを引いて「自らの意思で自粛することを選び取れば、自粛生活によって健康で幸せになるはずです」と藤田一照さんは述べられている。

分かってはいるけれど、その認知転換はなかなかに難しい。

これが可能なのは、自粛が要請されていない段階で自粛を自主的に行う場合じゃないだろうか。自粛が要請されているということは、野口さんの例えで言えばすでに食べ物が無くなっている状態と等しい。

そもそも自粛生活が幸せである必要はあるのだろうか。そんな疑問も湧いてくる。確かに健康を損なうのは問題だが、コロナとそれに伴う自粛という外圧によってどれだけ自分を見つめ直せるか、ということのようにも思う。

「自分の人生はこれで良かったのか」
「何かに追われすぎてきたのではないか」
「誰かの評価ばかり気にしてきたが、自分が本当に大事にしていることは何か」

そんなことを強制的に考えさせられるのがこのコロナの時代なのではないか。何も自主的に考える必要は無い。必然的に考えざるを得ない。

それで良いではないだろうか。


横田南嶺老師の「宗教という夜」


ここで横田南嶺老師の文章に触れたい。

横田老師は山田無文老師という方の「無用の長物」というコラムを引用しておられる。少し長いけれど。

 人生に夜のあることはうれしいことである。どんなに仕事の好きな人も、夜は仕事を忘れて眠る。どんなに金もうけの好きな人も、夜はその貪欲をわすれて眠る。どんなに学問の好きな人も、夜は本を書棚におさめて眠る。生命をかけた戦場の勇士も、夜は銃をまくらにしてしばしばまどろむであろう。
 宗教の世界も、夜のようなものではなかろうか。弥陀の本願には老少善悪の人をえらばず、善き者にも悪しき者にも、神は同じく雨を降らせたもう。世の成功者も、ここではその誇りを忘れて平凡な人の子となり、世の敗残者も、ここではその失意を忘れて、神のふところにいだかれる。
 宗教の世界とは、夜のごとく争いと憂いのないやすらぎの世界である

名文だ。

この文章は「忙しい今の世の中に、静かに坐る宗教などは無用の長物とも思われよう。しかしその無駄が決して無駄ではないことを忘れてはなるまい」と締めくくられる。

心にしみる文章、というのは言い古された言い方かもしれない。心に柔らかくしみこみ、宗教的な世界観にたゆたわせてくれるのが感じられる。

ここで使われている「宗教は夜のようなもの」という比喩からは色々と考えさせられる。思うに、夜の街が栄え、テレビやスマホなどによって昼夜を問わずエンターテイメントに親しめるこの時代にあっては、ずっと昼のようなものだ。

ネオン街のことを「眠らない街」と形容するけれど、現代人のほとんどが「眠らない生活」をしているのだろう。

自粛によって家にいることが圧倒的に多くなったコロナの時代においては、私たちは少しずつ夜の領域を取り戻しつつあるのかもしれない。

ただ、家にいてもスマホやPCによってつながるSNSやエンターテイメントからは自由になれない。


何かを「しない」主体性

ここに来て、藤田一照さんの語る主体性が意味を持ってくるのではないだろうか。

それは何かを「する」主体性では無く、「しない」主体性だ。「しない」ことを選択する態度だ。

検索をすればいくらでも情報が手に入る。好きな動画もいくらでも見ることができる。本当に大事なものは見つからないかもしれないが、自分を振り回すものから離れること、離れようとする努力はできるかもしれない。

家にいなかったときは癒やしになっていたSNSやエンターテイメントも、ステイホームの時期にはむしろ精神的な負荷に感じられるようになった人も多いのではないか。

自分自身の人生の目的や意味を考える。

それはいきなりはできないのかもしれないが、余計なものをまず減らしてみる。そして静かに考えてみる。黙想し、あるいは瞑想をしたり、坐禅をしてみる。

8月も半ばを過ぎ、これからは夜の時間がどんどんと長くなっていく。

自分の人生にも夜の時間を増やしていきたい。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?