女のいない男たちを再読している

村上春樹の「女のいない男たち」を再読している。

おれは彼の著作の熱心な読者、フアンではない。
主要長編に目を滑らせた程度だし(再読や精読もしていない)批評的な読解を試みたこともない。

村上春樹作品に対する批評的な著作(それこそ宇野常弘とか)やインターネット上に転がっているテクストを眺めて補助線を引こうと試みたことはある。

その程度の読者だ。

だけれどもこの短編集だけは何度も何度も読み返しているし惹きつけられている。

おれ自身がタイトル通り「女のいない男たち」の列に加わったからだろう。

この本に書かれている事について色々と思うところはある。

改めて批評的な視線で眼差すには(自分自身にとって)生々し過ぎるテーマな訳だし、そもそも読解力がない。
テクストに向き合う事について学んだ事もない。

なんとなく目を滑らせ、文章列と脳の中にあるガラクタ箱に入れてあるあれやこれやを繋ぎ合わせてなんとなく感じ入ったり意味を見出したりする程度の姿勢でいつも本を読んでいるから。

ーーー

そしてひとたび女のいない男たちになってしまえば、その孤独の色はあなたの身体に深く染み込んでいく。淡い色合いの絨毯にこぼれた赤ワインの染みのように。



時間と共に色は多少褪せるかもしれないが、その染みはおそらくあなたが息を引き取るまで、そこにあくまで染みとして留まっているだろう。

女のいない男たち

文字通り「女に去られた」「去られようと」している男たちの物語。

村上春樹の手癖、卓越した比喩には感心しつつ笑ってしまうし、各作品の主人公の男たちのモノローグや見解に同意したりした。

地方で育ち、文化的資本を持ち得なかった中年男性としてのいらつきは抱き合わせになるが。

おれは黄色のサーブ900コンバーティブルではなくてユーノスロードスターにタービンを無理やり付けたものに乗っていたしキャンティ・ワインではなくてスミノフアイスを飲んでいた。
店を譲ってくれる独身の叔母はいなかったけど友達の母親からお土産にホッケの開きなら譲られていた。


氷の月はもう見えやしない。
川底に揺れるヤツメウナギの夢は見ない。

どこかの批評家が言っていた。
中高年男性の屈託や憂鬱にはもう飽きたと。
若き書き手や女たちは次の次元に進んでいると。
文学的な意味合いで。

おれも概ね半分は同意する。
ただその理屈で行けば...言わぬが華か。

この様な作品を必要とするものたちは今でも多くいるだろうし、これからも存在し続ける。

去られる人間は今日もたくさん生まれているだろう。
”傷つくべき時に十分に傷つかなくてはならない“と知るべき者たちがその中に少なからず居るはずだから。

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