夜の観察

 夜というものの暗さが、まず第一に身体を包みます。とぷんと闇に身を差し入れて、全身を浸してみて、夜はとびきりの無音か、うだるような騒音にしゃかしゃかと降りしきられて、それが通過するか跳ね返るかで自分の身体にいたきめの細かさを測りながら、ひとびとは縦横無尽に街を、それぞれの容積で歩き回り居座り、自分の穴からぷくぷくと夜空の方に浮いて出ていくあぶくの数々を、ここでは世迷いごとと呼びならわしています。
 きょうも夕暮れと夜の境をわざわざ好き好んで、曲芸師みたいに腕を左右に延ばし、ゆらゆらさせて、ここから落ちたらマグマだなんて、なんだかおかしい。夕暮れと夜には、それぞれの落下の法則があるだけで、きりきりと突き立った境い目が、夜の波にだんだんと洗われて削り取られ、さいごは一面の闇に溶け込んでしまう。帰り道、おどけた様子で境い目のうえを歩くのは、脱脂綿のような夕焼けに落ちて足を取られるのにも、夜の水面に顔を叩きつけられて眠れなくなるのにも耐えられない、そういう時期の若者に特有の、切実なたわむれです。鋭いけれどか細すぎる、ぽっきりと根元から折れてしまいそうなまなざしで、境い目を見定めて、その視界の繊細さに比して足が大きくなりすぎたものだから、一歩ごとによろよろとバランスを崩して、延ばした腕はなんの意味もないのにじたばたさせる。眼と足と腕の、てんでばらばらな動きを乗せて、境い目はじりっ、じりっと後ろに下がり、しまいに家へと運んでゆきます。
 夜は第二に、月を露出させます。月は恒星ではありません。月は光を発するために、夕暮れの脱脂綿の繊維を伝って、あるいは夜の水面に溶け出させて、ひとびとから光を吸収し、それを猫の目に分け与えます。夜空からふり注ぐ月光は、雑多なひとびとの光を混ぜ合わせたものであるために、まっすぐには降りて来ず、澱のようにゆっくりと揺蕩いながら街の底に積もってゆきます。ときたま月が真赤に染まるとき、女になった少女は脚のあいだに夜を抱え、寝床のなかで鼻先に闇の深さを感じ取り、男になった少年は仄暗く照らされた空っぽの全身に、夜闇と冷気を循環させる。そして女になりながら女でない、男になりながら男でない、何者でもありながら何者でもないものたちは、猫の目玉をほじくり出しては飲みくだし、澱のように深く眠ることを求めながらも、カーテンの内側でおのずから発光する。彼らは月の光をおそれて、あるものは部屋に閉じこもり、またあるものは街頭やネオンの刺すような光の数々のなかにみずからの身体を匿い、そこで刻一刻と年老いてゆきます。
 いくつもの闇と光に、静けさとかまびすしさのどしゃぶりに、幾重にもさえぎられた彼らは、やがて夕暮れと夜のあいだで出会い、あるときはつまづき、あるときはひとを突き落とし、まなざしが杖のように身体を支えるようになったころ、あたりまえのように新しいいのちを、あるいはみずからの身体を、夕暮れに横たえたり夜に清めたりしながら、だんだんに闇それ自体になって、ただの光として街じゅうに、拡散してゆくのです。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?