代表選考会/3(短編全4回)
北京五輪が開幕した。団体戦には出ず、女子シングルだけに出場する沙織の出番は閉幕直前で、それまでかなり間がある。団体戦の応援をする余裕はない。ジャンプの勘を取り戻そうと直前までホームリンクで練習し、本番直前になってからコーチと共に現地入りした。
国を背負う重圧。その大きさは他の大会とは段違いだ。本番リンクでの練習でも、沙織の調子はどんどん崩れていった。大会中、家族や友人から励ましのメール、ラインが山のように来たが、千香からのものは無かった。
結局、ショート、フリー共にミスを連発し、総合二十位。
◇
閉幕を待たず、フリーが終わった早々に沙織は帰国した。五輪熱に浮かれるマスコミの目から逃れるように。閉幕後数日を経て、沙織は新宿にある日本スケート連盟本部を訪れた。
コーチに言ったところで潰されてしまう。いっそ、トップに直訴するのだ。会長の佐川満にはアポイントを取ってある。十三時。会長室をノックした。
「入りなさい」
佐川満はフィギュアスケート男子シングルで五輪入賞、世界選手権で銅メダルを獲得した、スケート界で知らぬ者はいない重鎮だ。部屋にはところ狭しと現役時代のパネルやトロフィーが飾られている。
ソファに座るよう促された。が、沙織は立ったまま一気に言った。
「世界選手権を辞退します」
佐川は長いこと沙織を見詰めていたが、
「その話だと予想していたよ。だって、コーチを伴わず本人だけが来るって言うんだもん」
ソファにゆったり構えた佐川は、柔和な笑みを浮かべながら沙織を見上げた。再度促され、沙織も向かいのソファに腰かけた。
「体が思うように動かないんです。五輪前から、ずっと。五輪ではあのような酷い結果で、せっかく選んでいただいたのに申し訳ないです。全国の皆さんにも……」
佐川は笑みを崩さない。
「私も初めて出た世界選手権は惨敗でね。入賞間違いなしと言われていたのに、重圧に負けて十七位だった。日本に帰りたくなかったねえ」
「でも、五輪で入賞され、その後の世界選手権ではメダルを獲られました」
「数限りない失敗を経てのことだ。最初から上手くいく選手はそういないよ。ましてや君は世選経験も無しで初めての五輪だ。緊張はやむを得まい」
「来年の枠取りが掛かっています。ダブルアクセルも跳べない時もあるんです。世界選手権でも満足いく演技ができる自信がありません」
来期の世界選手権の出場人数は、来月末開催の今期の世界選手権の結果で決定される。共に出場する先輩二人が崩れれば、自分の結果に掛かってくるのだ。佐川は両手を拳のかたちに組み、それに顎を乗せてしばらく瞑目していたが、
「これは来週正式に発表があるまで内密にして欲しいんだが。……澤田優美が引退し、世選辞退するんだ」
沙織は息を飲んだ。世界選手権への出場予定は五輪にも出場した澤田優美、松本葵、そして芳野沙織の三人なのだ。
「だから、君に外れてもらっちゃ困るんだ。澤田の替わりには全日本四位、補欠の斉藤千香が出場する」
千香……。千香に会いたくない。じゃあ、なおさら辞退しなければ。
「五位の尾形安奈さんも実力があります。彼女の技術点は私よりずっと上です」
「君ねえ。どんだけ弱気なの」
佐川が苦笑を返す。振り返り、奥に続く別室に声をかけた。
「入っておいで」
別室のドアが開き、覗いた顔は――千香だった。
(続く)