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WATCHER山 ~乙女のような女編~

マンションの7階から飛び降りたそうです
ゆくゆくは自宅退院ですので
リハビリ、よろしくお願いします

ウォッチャー山:
分かりましたー


ただ、空を飛んでみたかったんです

by 柏葉春奈


リハビリ初日 初回評価

ウォッチャー山:
はじめまして、柏葉春奈さん
リハビリを担当する山です

柏葉春奈:
よろしくお願いします

年齢は55歳、身長150cmほどであろうか
病衣からも分かるやせ型で
少しうつむいた柏葉春奈が
リハビリ室入口にあるベンチに座っていた

入院しているというのに
ぐるりと短いツバのついた
ベージュの登山帽を目深にかぶり
うなじのあたりまで白髪まじりの髪が
力なく垂れている
その髪からのぞく力のない目は
リハビリ室の床を通り越して
どこか遠くを見つめているようだった

第一印象だけだが
真面目で、清楚で
そう、敬虔なクリスチャンをイメージさせた

ただ

口角を左右に広げ
歯をむき出しにしたままのその表情は
彼女の異様さを醸し出している

ウォッチャー山:
前の病院でどんな訓練をしていましたか?

柏葉春奈:
歩く練習と、柔軟体操をしていました

話をすると口びるは滑らかに
その動きを取り戻す

か細く角のないクリーミーな声は
とてもつややかで、聞き取りやすかった
この人は歌が上手い人だな、と
ウォッチャー山は、声を聴くだけで分かった

ウォッチャー山:
今日は初回ですから、関節の具合と
力がどのくらいあるのか
診せてもらってもいいですか

柏葉春奈:
はい、よろしくお願いします

プラットフォームと呼ばれる
リハビリ用の診察台の上で
ウォッチャー山は
柏葉春奈に、仰向けに寝るよう指示した

柏葉春奈は、ベンチから立ち上がり
プラットフォームまでの
10m程度の距離を歩きだす

少し前のめりで
膝を伸ばしたまま、足を床にする歩き方
バランスが悪いわけではないが
全体的にスムーズさに欠けていた

彼女の傷病名は、骨盤骨折
昨年の12月の末、おっちゃんこの状態のままで
高い所から落ちてしまったのだ

その際、下腹部の中で大出血し
左の股関節が良からぬ方向にはずれてしまった
そのせいもあって、手術の後
半年以上、車いすでの生活を余儀なくされていた

この病院に転院する頃には
何とか自力で歩けるようになり
今では身の回りのことはだいたい自分でできている
ただ、排泄面に課題が残り
特に大便に関しては
時々間に合わず、失禁してしまっているので
リハビリパンツという紙パンツを履いていた

彼女は、プラットフォームの上に仰向けになる

ウォッチャー山もプラットフォームに乗り
仰向けになった柏葉春奈の左足を持って
股関節がどの程度動くか動かしてみた

ウォッチャー山:
身体、柔らかいですね
何か、運動されていたんですか?

柏葉春奈:
これといってしてませんが
若い頃は、よく登山とダンスを

先ほどの歩く動きを見て
関節が硬いかと思ったが
思いのほかスムーズに股関節は曲がった

膝も、ひっかかりなし
足首は少々硬さがあるが
制限となるほどではなかった

ウォッチャー山が彼女の足を動かすと
それに連動して体や頭も上下する

すると彼女のツバの短い登山帽が
頭から脱げそうになったが
彼女は両手でそれを防いで
必死に頭から帽子を離れないようにした

関節の動きは、問題なし

事が済むと、安心したのか
彼女は帽子から、その手を離す

ウォッチャー山:
登山ですか、どの山を登ったんですか

患者の体に触れるリハビリには
世間話が必須だ

すると彼女は

柏葉春奈:
ドイツのイエンナーという山が1番好き

ウォッチャー山は
聞きなれない山の名前に少々驚いた
まさか、外国の山を言うとは

ウォッチャー山:
ドイツまで行って、登山をされたんですね

柏葉春奈:
音楽仲間にドイツ人の方がいて
何度か遊びに行ったんです

話によると

彼女は近畿の某有名な音大を卒業後
師事するピアニストの傍にいたいと
父親の反対を払いのけ、大阪で就職を決めたという

学生時代はピアノとマリンバを先行しており
マリンバ奏者仲間にドイツ人の学生がいて
その伝手で、何度かドイツに遊びに行った際
登山の面白さを知ったのだそうだ

ウォッチャー山:
じゃあ、音楽でも聴きますか
だいたい何でも聴けますよ

柏葉春奈:
バッハの平均律、、、いや
徳永英明の歌が聴きたいです

ウォッチャー山は、よくリハビリ中
自分のスマホのYouTubeアプリから
Bluetoothでスピーカーに飛ばし
患者の好きな音楽を流すことにしていた

大概の人は、好きな音楽を聴くと
その時だけでも活気を取り戻し
パフォーマンスが良くなる

何よりも、ウォッチャー山に打ち解けてくれるのだ

そんな柏葉春奈は
意外にも徳永英明のデビュー曲をリクエストした

彼の歌声が、好きなんです
そう

輝きながら

♫思い出を詰めた 少女の笑顔のままで♫

ここが好き



リハビリ 5回目 階段昇降

ふたりは、手すりに掴まりながら
階段の上がり降りをする練習をしていた
段差をのぼる時、否応なしに膝は曲がる

ウォッチャー山は
彼女が普段、膝を伸ばしたままで歩くので
もう少し膝を使ってほしいと考えたからだ

ウォッチャー山:
いいですね、膝が上がる様になってきた

柏葉春奈:
そうですか、ありがとうございます

歩く時の前のめりだった姿勢が
真っすぐとまではいかないものの
初回に比べると、ずいぶん改善され
彼女は膝を曲げるようになっていた

口を開け、歯をむき出しにし
苦でもなく、楽でもないその表情も
以前より少しだけ、柔和になったような気がする

そう、リハビリは順調に進んでいるかに見えた

ウォッチャー山:
柏葉さん、ダンスをしていたと聞きましたが
どんなジャンルのダンスを?

何の気なしにウォッチャー山は聞く

すると

柏葉春奈:
どんなダンス、、、

3階へ向かう階段の途中
ウォッチャー山は
自分の何気ない声掛けに
彼女のオーラがピリッとしたのを感じた

柏葉春奈は、なかなか返答しない

すると彼女の階段ののぼりが止まり
むき出しの歯が、腹話術のように話だした

柏葉春奈:
創作です、思いついたまま
部屋でひとり踊るんです
左ではこうで、右手をここに当てて

突如、彼女は当時のことを思い出したのか
手すりを放した左手は自身の右の胸に当て
右手は自身の股間に当て

自身の指のグーパーを繰り返し
胸と股間をまさぐりだしたのだった

彼女の表情は硬く、口はめいっぱい広げ
目には、怒りのような強いよどみが現れていた

どこを見るわけでもなく
階段のまだら模様のタイルを見つめたまま

柏葉春奈:
ダメだと言ったのに、こうしろとか
ダメだと言ったんです、なのにああしろって
ダメだって、、、

声は、いつもの穏やかな美声だが
明らかに内なる感情があふれ出しているのを
ウォッチャー山は、感じ取ったのだった

今日は、このまま病棟に戻りましょう

ウォッチャー山は、柏葉春奈の右の脇を持ち上げ
3Fと書かれた重たい扉を開き
そのままリハビリを終えたのだった



リハビリ 1ヶ月後 バランス訓練

あの日から

いやあの日がなかったかのように
柏葉春奈はリハビリに拒否することなく
日々の訓練をこなしていた

ただ先週、長らく癌を患っていた
彼女の父が80歳で息を引き取り
葬儀のため2日間、実家に外泊していた

土日を挟み、5日ぶりのリハビリの時

柏葉春奈:
しばらくぶりに家に帰ったら
母は車いすでした
もともと腰が悪い人でしたから

ウォッチャー山:
そうだったんですね

柏葉春奈は、葬儀の話をあまりしなかった

一方、彼女の身体の動きに
幾分スムーズさが出てきたので
我々としては次はもっとテクニカルにしたい

スムーズとはいえ
まだまだ動作全般がカクカクしているのだ

柔らかいマットを敷いたその上で
寝たり起きたり、片足で立ってみたり
体の重心を上下左右に動かして
連続した動作を繰り返すことで
様々な関節の動きとバランス感覚を養うためだ

ウォッチャー山:
寝返りが完成しないまま
起き上がろうとするから
必要以上に力を使ってしまうんです

この頃には、彼女のカクカクした症状が
骨折の後遺症ではなく
向精神薬の副作用だと
ウォッチャー山は気づいていた

だが、それを言っても
柏葉春奈に届くわけもなく
何度やっても努力性で
何度寝返りをしても
片足立ちをしたとしても

バランスを崩してうまくいかない

やっとのことで

彼女は右足を宙にあげ
自分の体を左右に大きく揺らしながら

父は、教育の分野では有名な教師でした
本も出しているんです
難しい内容でつまらなかったけれど
わたしには偉大な存在だった

だからでしょうか

わたしにひと言も謝ることなく
やすらかに、天国に逝きました

、、、山先生

徳永英明を聞かせてください
曲は

輝きながら、を

♫思い出を詰めた 少女の笑顔のままで♫

うん、ここが好き



リハビリ 3か月後 屋外歩行

気づけば秋、木立の影が背を伸ばし
カラカラとブナの葉を風がさらう晴れた午後

ウォッチャー山と柏葉春奈は
病院近くの公園まで散歩に出かけていた

あのバランス訓練で
目立ったバランス能力の向上は得られず
ウォッチャー山は早めの段階で
屋外を散歩することにした

退院の目途が絶たず
入院が長引きそうだと
医療相談員から連絡を受けたからだ

彼女の母の介護をしていた父が急逝し
彼女ひとりで母の介護と
自身の暮らしを両立できるわけもなく
精神状態にもいささか不安があると
コンサルされた精神科医が
通常の退院に待ったをかけたからだ

さすれば、リハビリとしては
院内で暮らすことだけに慣れてしまわぬよう
寒くなる前に、雪が降る前に
できる限り、外の感覚を忘れないようにしたかった

そして

公園の風は、冷たかった
木枯らしだ

時々ふたりをさらう風に
柏葉春奈は
目深にかぶるツバの短い登山帽を両手を添え
帽子が飛ばされないようにしている

帽子だけは、、、
彼女の中でそれだけが
気が気じゃないようだった

ウォッチャー山:
時々話に出る、東先生というのは
どんな方だったんですか?

公園のブランコが、秋風に小さく揺れている
その横のベンチで休憩をとった時のことだった

柏葉春奈:
作曲家です、死んでいなければ今年で80歳くらい
当時、有名な曲に『春の兆し』があって
わたしは、それが大好きでした

また、歯をむき出しにしたままにしている

彼女は当時、師事していた作曲家の話を
またも腹話術のような話し方で話し出した

わたし、30歳の時
東京で東先生のパーティに参加できることになって
先生の前で『春の兆し』をピアノで演奏したんです

先生は、それをとても喜んでくださって
その後、ホテルの部屋に誘われて

ベッドの上でひとり自慰したんです

先生は、それをウイスキーを飲みながら
ただ、わたしを眺めていた

その時、わたしはイヤだとは言わなかった

ウォッチャー山は
柏葉春奈の開ききった口が
もとの流暢でしなやかな動きに変わるのを見た

柏葉春奈:
父が要求する淫らな行為が嫌で
あんな遠いところまで逃げ出したのに

こうしろとか
ああしろって

イヤだった、、、

すごくイヤだった!

だけど

柏葉春奈は、途端に静かなトーンになる

わたしには、ボーイフレンドがいたんです
英語とイタリア語が話せる彼が
遠距離だったけど結婚もするはずだった

いや、もう結婚していたんです
だって、彼はわたしにとても優しかった
イエンナーの山を一緒に登った時
彼はわたしにプロポーズしてくれたんです

プリーズ メアリー、、、ミーと

遠くには緑の谷の真ん中に、雪の白さが見えて
わたしはこの人と一緒になるって思えました

でも

柏葉春奈の口調はますます暗くなる

父は許してくれなかった
幼いころからダンスを踊ろうと言って
わたしの部屋に、ふたりきりになって
それに抵抗できなかった

わたしも、自分が許せなかった

東先生は父と違って優しかった
でも、要求することが父と同じで

それでも
抵抗することができなかった

ウォッチャー山は
彼女の経験の時系列が
一色単になっていることは
明らかに聞いていて分かった

柏葉春奈:
先生、わたし

統合失調症なんです

また、木枯らしがふたりをさらった

ウォッチャー山:
知ってましたよ



リハビリ最終日 退院時指導

12月26日、晴れ
昨日まで季節外れの寒波が北海道を襲い
市内はあたり一面、銀世界になっていた

クリスマス寒波、といわれる
毎年恒例の大雪だ

ホワイトクリスマスなどと喜んでいたのは
学生や若い恋人たちだけで
街中、突然の積雪に渋滞に見舞われ
大人たちは、再三の交通の乱れや雪かきに
ほとほと疲れてしまっていた

が、寒波が去り、昨日が嘘のような晴天の朝

ウォッチャー山:
本当にお疲れさまでした
だいぶ動きが良くなっているので
あとは、体力が落ちないよう
なるべく体を動かすようにしてください

患者に対してなら誰にでも言う
ウォッチャー山の月並みなセリフだ

柏葉春奈:
お世話になりました

リハビリ室の出入り口には
私服に着替えた柏葉春奈が立っている

生成りのブラウスに、ベージュのスラックス
その上に、エンジのダッフルコートを着ている
紺のチェック柄の大判のマフラーが
彼女の清楚さを一段と強調していた

彼女がマンションの7階から飛び降りて
早1年が過ぎようとしている

ほんの少しだけ、静かな沈黙があって

ウォッチャー山:
どうして、7階から飛び降りたんですか

聞かなくてもいいことなのに
ウォッチャー山はどうしても聞いてみたかった

すると柏葉春奈は
何事もなかったように

柏葉春奈:
あの日は、真っ青に晴れた冬の日でした
どこまでも空のてっぺんが遠くに見えて

死にたかったわけじゃないんです

彼女の歯がむき出しの口は
また流暢さを取り戻し
高くもマーブルな声色で

ただ空を

飛んでみたかったんです

父が、いける、と言ったから

そう話すと、彼女はあの片時も離さなかった
帽子をとって深々と礼をしたのだった

彼女がウォッチャー山に見せた
その頭頂部は

わずか数本の髪の毛を残し
以前から見ていた顔の横からのぞかせていた
白髪まじりの髪が
肩のあたりまで活き活きと伸びている

まるで、落ち武者のようだった

その無残な姿で
顔を上げた柏葉春奈は続けてこう言った

わたしが抜いてしまったこの髪の毛
もと通りになりますでしょうか

ウォッチャー山にその答えをすがるわけでもなく

わたし、専門の精神科の病院に移るんです

続けて、彼女はそう言った

ウォッチャー山:
はい、聞いてますよ
ところで、お母さんは?

抑揚のない空気感があたりに広がる

柏葉春奈:
施設に、入りました

ウィッチャー山:
それは、安心ですね

はじめて会ったあの日から
変わらず
柏葉春奈は、口びるに力を入れたまま
歯をむき出しにした表情を見せている

柏葉春奈:
母は、知っていたんですよ

と言ったその後

柏葉春奈:
あんな不自由な状態じゃければ
次はあなたが窓から飛び降りろって
言えたのに

あの開いたままだった彼女の口がゆっくりと
ギシギシと音を立てるように閉じ

それとは反対に
彼女の耳にまで達するような肩の力が脱力する

そのわずかな瞬間

ほんの少しだけ、彼女は
微笑みかけてみせたように、、、
ウォッチャー山には

見えた

ほどなくして

彼女の両脇に
転院先の男性看護師ふたりが付き添い
この病院を後にした

ウォッチャー山は
その微笑みを見せてくれたと思える
柏葉春奈の後姿に

それでもなお、お元気で

そう、つぶやいた



※この物語は、フィクションです
 WATCHER山シリーズはこちら☟













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