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細島みなと資料館(旧高鍋屋旅館)

『細島験潮場』
『宮崎細島を歩く』
に続いて、宮崎細島の記事を書いていきます。

細島のランドマークと言える細島みなと資料館。
日向市で唯一現存する木造3階建ての建物は大正10年(1921)に建てられ、昭和57年(1982)まで高鍋屋旅館として営業していました。

【高鍋屋の歴史】

高鍋屋の当主三輪氏の出自は明らかでありませんが宝暦元年(1751)には高鍋藩への出入りを許されたことがわかっています。
正確な史料がないため断言することはできませんが、当時の三輪氏は「御用商人」の指名を藩から受けたものと見られ、しばらくして明和8年(1771)には「売船問屋」の営業許可を受けています。

三輪氏に画期がおとずれたのは幕末の文政2年(1819)です。
この年の10月、高鍋藩は、三輪氏の当主次郎左衛門に対し、藩主秋月氏が参勤交代の際に利用する座敷を細島の次郎左衛門宅に建てるよう命じています。
ただ、その際、藩は翌年の春までに自力で座敷を完成させるよう命じています。
そこで次郎左衛門は、木綿屋好助という人に売船問屋の株を譲り、また藩との交渉の末、「三人扶持」の禄高を戴いて資金を調達し座敷を完成させました。
このことは三輪氏が長年築きあげてきた商家としての営業権を一部放棄したうえで、その見返りとも言うべき侍格の待遇を藩から受け、藩主の座敷を営む栄誉を手にしたとも言えるでしょう。

ところで、高鍋藩主の参勤交代では城下(児湯郡高鍋町)から陸路で川南、都農を経て、美々津に至る陸上の陸路と、城下の蚊口港から船で美々津に至る海上の経路が使われています。
美々津は高鍋藩領の最北端に位置する港町で、耳川の河口を利用した交通の要所であると同時に、上流域の物産品を瀬戸内や畿内に送る物流基地としての性格も持っていました。このため美々津には藩主の御仮屋が建てられ、また番蔵や番所などの施設も置かれ、番代や代官、蔵役人などの役人が城下から派遣されていました。
一方、細島は日向国天領の重要港であり、幕府は南九州諸藩に対して参勤交代の際には細島港から出帆するように命じていました。
このため町内には薩摩屋、鉄肥屋、佐土原屋などの屋号を持つ御用商人がおり、参勤交代に必要な物資の調達やそれぞれの藩との商取引を担い、また藩主の休憩所や宿所としても利用されていたようです。三輪氏は、前述のような経緯をへて高鍋藩との関係を強め幕末を迎えました。

明治時代以降になると「高鍋屋文書」が三輪氏の歴史を私たちに語ってくれます。
「高鍋屋文書」は高鍋屋旅館の修理工事に際し、同家伝来の書画の額装の裏から発見されたもので明治時代〜昭和初期に至る100点余りの古文書の総称です。
これによると明治時代の三輪氏は、木炭や椎茸、魚などを専ら取り扱う小売商であったことが考えられます。
ただ、明治時代初期の有名な書家で高鍋藩主の子孫にあたる秋月種樹の揮を「高鍋館」の額があり、旅館業を手題けていたことがわかります。
おそらく幕末から明治初年にかけて、三輪氏が「高鍋館」と言う名の旅館を創業したのでしょう。

現在、日向市細島みなと資料館として活用されている高鍋屋旅館の本館は、三輪次郎の代の大正10年(1921)に棟上げされたものであることが棟札によって確認されています。
また、本館には明治38年(1905)の棟札も残されています。
この棟札は次前に建てられていた旅館のものと見られ、次郎の父、三輪利三郎の名が記されています。

ところで、「高鍋屋文書」の中には大正時代の「宿帳」も残されています。
これには宿泊客の投宿や出発の月日、時間、それに前夜の宿所や行き先、職業、住所、氏名、年などが記されています。
それを見ると大半の宿泊客は商用で細島に来て泊まった人たちで、県内外から訪れていることがわかります。
このことは当時の細島の賑わいを示すのと同時に、当時の高鍋屋旅館があくまでも庶民のための宿泊施設であったことを表していると言えるでしょう。
細島の商家から出発した高鍋屋は御用商人の時代を経て、藩主の休憩・宿泊所となり、さらに明治維新を経て、庶民の宿に姿を変えていったのです。
高鍋屋旅館は昭和57年に営業を停止しました。
しかし今も昔も細島の歴史を静かに見守っています。

引用元:細島みなと資料館


受付を済ませ、先ず入ったのは当主の居間。

高鍋藩秋月家と縁のあるお宿には、秋月種樹氏の作品が数多く展示されています。

調度品の中に旧源屋旅館の暖簾が・・・
私が生まれる前に解体されてしまった木造3階建て、見てみたかったなぁ。

居間の向かい側にある調理場は土間になっています。

居間の隣は仲居さんの控室として使われていた部屋。

レトロな扇風機と並んで、紀元2600年奉祝事業の様子を写した貴重な写真が展示されています。

昭和20年代、艶やかなお着物をお召しの高鍋屋旅館の仲居さん。

古めかしいアイロンや昭和15年の裁縫教科書、そして武運長久を願った日章旗。

廊下に飾られた写真を楽しみ(細島みなと祭り行きたい欲を駆られ)つつ、2階へ。

こちらの階段は使用禁止ですが、見事な透かし彫りが施されています。

3つの客室がある2階。
こちらは8畳程の広々としたお部屋。

立派な屏風は日向市出身で延岡藩の絵師・片岡米山氏の作品。

高鍋屋旅館に宿泊した詩人で作詞家の野口雨情氏の書も展示されています。

「港 細島 錨はいらぬ
厚い人情が船つなぐ」
細島に暮らす人々の温もりを感じる、いい詩だ。

当時の客室が目に浮かぶ調度品。

お隣の部屋は6畳程。

床脇の地袋には美しい絵。

床の間には定木や菓子木型などが展示されています。

褪せた床板と色艶やかな欄干の対比までも美しい縁側。

縁側沿いの4.5畳程のお部屋。
床脇の上部も収納になっているよう。
・・・うん、上部に気を取られてたら下部の装飾撮り忘れました←

2階の見学を終えて3階へ。
3階には3つの客室と3畳の布団部屋があります。

廊下を渡り縁側へ。
やはり縁側の美しさたるや・・・座布団敷いてまったりしたい。

客室の広さは2階と同じですが、床の間の造りなどが異なります。

特にこの客室は趣向を凝らした床脇が目を引きます。

こちら!
なんと巻物の彫り物が施された筆返し!!
初めて見る形で静かに興奮しておりました・・・
大工さん、粋ですね。

ここの狆潜りは光取りの窓代わりに使われていたとの事。
狆潜りを設ける為に斜めに切り取られたような形状の地袋すら美しい。

床の間には高鍋屋旅館と旧細島小学校校舎の棟札が展示されています。

2階同様、一番広い客室。

3階から昭和40年代に建てられた管理棟を望む。

1階に戻り、管理棟へ向かう。

本館最後の部屋はお風呂。
浴槽が無いのは改修時に解体したのかな・・・
ガイドさんに聞きそびれてしまった。

管理棟を結ぶ通路から本館を見る。

管理棟の1階は学習・展示室となっており、当記事冒頭に引用した【高鍋屋の歴史】を始め、町の歴史や秋月種樹氏の作品などが展示されています。

2階は資料展示・文献資料室となっています。

港町ならではのものや民族的なものに混じって、西南戦争に関する展示も。
肖像写真は鹿児島出身の迫田鐵五郎少佐で、明治10年(1877)8月18日に可愛岳で戦死されました。

拳銃を始め、迫田少佐の遺品はご遺族から寄贈されたもの。
寄贈された経緯などは夕刊デイリーWebの『西南戦争・細島官軍墓地に眠る「官軍少佐迫田鉄五郎」』に詳しく書かれていたので、お時間のある方は是非。

最後は管理棟から本館を望む。

今回は時間が足りず細島官軍墓地は訪れていませんが、また近くに伺う機会があれば訪問したいと思います。


最後まで読んで頂き、有難うございます。


【撮影機材】
Canon EOS 6D
Canon EF17-40mm F4L USM

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