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映画のセットのようだった河原町繊維問屋街

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各地で闇市が展開されていた戦中~戦後。
熊本も例外ではなく、熊本市電の電停がある河原町はかつて熊本市街地と川尻を結ぶ川尻線(昭和40年廃止)との乗り換え駅という役割も担っていた為に人の往来が多く、戦後に規模の大きい闇市が形成され、近くの長六橋の名を取って“長六の闇市”と呼ばれた。

当初は露店売りだった闇市は徐々に廃材を用いたバラック建築の店を連ねるようになり、昭和25年頃には小さな店が300軒程密集するまでになる。
この頃からガチャマン景気(糸へん景気)と呼ばれる繊維製品の需要が高まった事から長六の闇市にも繊維関係の店が4割を占めるまでに増え、闇市から通常の市場へと変化していき、商人には中国人や朝鮮人など外国人も多かった為、“国際市場”と呼ばれるようになった。

大変な賑わいを見せていた国際市場であったが、昭和33年3月4日に市場の店舗からの出火が大火となり、全焼60棟・半焼1棟・部分焼18棟・負傷者24名・被災者は800名超と市場は大打撃を受ける。
しかし火災発生前から組織していた国際商工組合は直ぐに市場再建に立ち上がり、組合員が出費して大火から半年後の9月には現在の鉄筋コンクリート造りの2階建てビルが建築された。

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ビルは店舗兼住宅として建築され、1階が店舗、2階は6畳1間の住居スペースとなっていた。
入居した店の多くは繊維を扱っており、この頃に“国際繊維”という看板も設けられた。
また前述したように人の往来が多い土地だった為、火災発生前から県内外から訪れる行商人への卸売りが盛んで、繊維を扱う店の多くも問屋であった。

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大火からの復興を遂げて国際繊維街は最盛期に入ったが、第1次石油危機の煽りを受け、繊維街には不穏な空気が流れる。
平成に入る頃には量販店などが進出した事で小売店や問屋は経営困難となり、閉業する店が相次いだ。

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一時はシャッター街と化してしまった国際繊維街だが、20年程前に“アートの街”として再生させる取り組みが始まり、空き店舗は破格の値段で貸し出され、現在は雑貨店やアトリエ、飲食店など多くのお店が入っており、映画のセットのような昭和レトロな空間に新しい風が吹き込み、他では中々見られない味わい深い風景となっている。

ただ私が訪れたのは平日のランチタイムを過ぎた時間だった為、お店があまり開いておらず、“多くのお店”というワードが伝わり難くなってしまったのが申し訳ない所・・・
あと辛うじて開いていたほわっとさんでお弁当をテイクアウト(この後に仕事を控えていた為、お店で頂く時間が無かった)して、とても美味しかったのだけど撮影し忘れるという大失態をやらかしたりと、再訪する要素たっぷりの町歩きとなりました(笑)

因みに平成28年3月12日に発生した火災により白川側4棟が焼失・・・幸い人的被害は無かったけれど、繊維街の面影を色濃く残していた区間だったとの事で、貴重な風景が失われてしまった悲しみは深い。
同年は熊本地震でも多数の歴史的建造物を失ってしまったし、自分の足で訪れて写真に収めなければいけないという使命感のような感情を改めて認識した年であった。


最後まで読んで頂き、有難うございます。


【撮影機材】
Canon EOS-1V
Canon EF8-15mm F4L Fisheye USM
Canon EF17-40mm F4L USM
FUJIFILM SUPERIA PREMIUM 400

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