モロッコ旅行記 3月10日

3月10日

午前十時ごろに起きて、朝食をいただく。共有スペースのソファに寝転がって漫画を読み、荷づくりをする。とりあえず十日間、ゲストハウスを手伝うことにしよう。そう決めて、典子さんに言う。
今日から二日間はアーモンド、十二日の夜から典子さんに仕事を教わりながら、という具合。
十四時ごろに「アーモンド」へ。先客二名が共有スペースで昼食をとっていた。みちよさんに家を案内してもらい、娘のアヤちゃんから攻撃をうける。階段をくだり、畑のぬかるんだ畦道を渡って川を越えると、青年が川辺の石ころを一輪車に積んでいる。カスバの、人の住んでいない物陰で一服する。白い蝶、アーモンドの桃色の花弁が、きらきらと輝く緑の内に映えている。渓谷の縞模様は水平に、斜めに、垂直になってそびえていて、点々と小さな雑草を生やしている。
足元にはたくさんの川の名残りが枯れ果てている。褪せたバブーシュが片足落ちている。

そんなに飛びまわって何をしているツバメ(鳥の群れ)

川音にまぎれる遠いミナレットからの四時の祈り

アーモンドにはまだなじめず、一人早々に外へ出ていく。
四時を過ぎてティネリールへの長い下り坂を歩いていく。ミニバスやグランタクシーに右手を挙げるだけの勇気も湧かずに、足元のオアシスの緑や囲う渓谷の岩肌を眺め、あらためて、さてわたしはどこへやってきたのだろうと自らで可笑しみながら、小石を蹴り上げてはとぼとぼと歩く。することもなし、コンクリートブロックや土嚢で急ごしらえした階段を下りて川辺に立つ。水切りをしても丸石は一、二としか跳ねてはくれない。引き返そうかと階段のほうへ向きなおると、折しも男が駆けおりてくるところで、「コンニチハ」と呼び掛けられる。男は川まで行くと顔を洗い、一口二口とすくった水を飲む。
「ティネリール?」
彼と、上の道路に停車させられた車を指して訊ねれば、「そうだ!」と元気よく返される。連れて行ってくれろと乞えば、陽気に
快諾してくれた。
イスズのピックアップトラックの助手席には男の友人が同乗していた。彼は当然のように運転席と助手席のあいだの狭いスペースへ身をよじって席を譲ってくれた。ドライバーの男が、
「お前には妻はいるのか?」
と問う。
「妻も車もないよ」
と返すと、彼は満面の笑みで親指を立てた。独身を謳歌しているふうだった。けれども、隣の友人は「ノーグッド」と言って苦笑する。肩身を狭くしてくれている白髪まじりのその彼は、
「妻がいる、牛や羊を飼って、仕事があって、庭に畑があって、子どもたちが居てくれる。ちょっとしたパラダイスだよ」
と静かに笑んだ。
ティネリールのマーケットの近くで下ろしてもらい、広場前のベルベルバーへ続く短い階段を下りていけば、昨日と変わらない、薄暗い半地下の空間が妖しげにわたしを出迎えてくれる。客は十人ほど。皆がカウンター近くの席に座り、あるいはカウンターの前に立って、ビールを飲み、タバコをくゆらせている。すたすたとカウンターへ歩むと、ベルベルの客たちが上目遣いにしげしげとわたしを見やる。マスターはわたしのことをおぼえていてくれたらしく、笑顔で、けれども厚かましくなく柔和な表情で迎え入れてくれた。
地元の客たちからはすこし隔たって、カウンターとは対角線にある席に腰をおろす。席とは言っても、打ちっぱなしのコンクリートに、紺色の薄いマットを敷いただけの極く簡易なものだ。それが壁に沿ってある。青と赤の小さな豆電球がいくつか弱々しく灯っているだけで、コンクリートに囲われた半地下の空間は一層に、涼しくでなく、冷たげに佇んでいる。けれども、ここへ集うベルベル人の客たちの穏やかで陽気な語らいが暖炉のように揺らめくのを見れば、この無機質な空間というのも、同胞の絆を深めるための演出に一役かっているのかもしれないなァと思われてくる。
店内には、奇妙な音階を爪弾く弦楽器に、妖艶な女の震える喉声の重ねられたベルベルミュージックが、チープなスピーカーから流されている。わずかな曲間の空白に、半地下の開け放した鉄格子の窓の隙間から、まだ明るい外の景色と往来の人々や、通り向こうの広場の緑が垣間見え、鳥のさえずるのが洩れ入ってくる。時刻はまだ午後六時ごろである。
客が一人帰れば、また新たにベルベル人が階段を下り、背を丸め、扉をくぐってやってくる。顔見知りと握手し、右手を胸にあて、親愛を込めている。彼の向かうカウンターにはマスターと先客二人が立ちながらグラスを傾け、何事かを喋っている。
一本目のフラッグスペシャルを空けて、そのグリーンの瓶をマスターへ向かって大きく振ると、屈強な身体つきの彼が同じ瓶を手に持ってテーブルまでやってくる。わたしの眼の前で、プシュッと栓を開け、頬で小さく笑ってカウンターに戻っていく。
四本を空けて外に出ると、ようやく陽の沈みかける頃合いで、時刻は午後六時。強い風が、ミニバスやタクシー乗り場の砂を勢いよく巻き上げていく。
渓谷行のひなびたミニバスの、埃でくもった窓に、薄暗い帳の下りたティネリールの街並みが、ナトリウムライトの外灯にぽつりぽつりと照らされている。
「アーモンド」のテラスから見られる空の星は少ない。天井があって、正面には渓谷の、漆黒の壁が迫りたって、夜空を狭くしている。
けれども川辺に近いために、蛙が方々で鳴き止まないでいる。川音は、せせらぐと呼ぶよりかは、絶えずざわめいているというふうである。
「春が来たわねェ」
昨夜の満天の下のテラスで、典子さんが蛙の鳴くのに耳を傾けながらつぶやいていたのをふと思い出す。わたしの背後ではアーモンドの宿泊客たちの語らいがあって、その人群れの片隅に居て、典子さんと、ユセフと、わたしとの三人だけで、交わす言葉も少なく、ただ所在なく眺め上げた満天と、灯りのないテラスの残影が、いつまでも頭の内で繰り返された。
静止画ではない。スロー映像でもなく、リピートでもない。テラスの欄干に両肘をついて煙草を吸う物憂げなユセフ、空を眺めあげる典子さん、その二人が、その存在が、線香花火のような儚さで以って、いつまでも虫の鳴くような淡い光を灯しているのである。
それはわたしの知ることのないノスタルジーではないだろうか。
それであるのに、ふと訪れた時間に、わたしの心はわたしに知られず盗まれていたらしく、人群れのなかで再び頑なとなったわたしの魂のその強固な輪郭の内で、星空のテラスの淡い記憶ばかりを、風になぶられて容易く掻き消されないように、わたし自身が丸まって、消え薄らいでいってしまうのを延命しているようだ。胎児が小さく丸まるように、渦に巻かれていくように、わたしはわたしの、わたしは或る世界の、中心の、深遠な空虚さの内へと、すこしずつすこしずつ、せめては溶けいってはくれないか。
やがて輪郭は曖昧にほぐれ、ちぎれ、川辺で鳴くカエルの喉に震わされ、渓谷に吹きわたる風に流され、露ひとつなく、消え入ってはくれないか。
頑ななわたしがぽつねんと、渓谷の石ころと変わるところなく、身を横たえている。
対岸の、日に焼けたまだ若い青年が、陽光に射されながら、錆びついた荷車に、石ころをひとつ、またひとつと積んで、汗を流している。

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