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自分が信じて行動してきたことは自分を裏切らない

今日は会社の人に「歩んできたキャリアについて話してほしい」と言われたので、こちらで話してきました。

持ち時間30分じゃ足りなかったので、こちらでも書こうと思います。
ちょうど節目の立ち止まり期間を経て、次のフェーズに向けて動き出したので、ちょうど良い。

10代のころの話、この分野に没頭し始めたきっかけはさまざまな媒体に書いてあるので、こちらをご参照いただければ。

この10数年、特に22歳から32歳で何をやってきたか、どのようにして生きてきたかというと、「実現したい社会、教育のためにできることを、必要だと思ったことを必死にやってきただけ」これに尽きる。

こちらの記事にも書いたように、私は不安がとても強い。完璧主義で、失敗することがこわい。けれど、この10年間で自分が学んだのは、「本気で自分が信じて行動してきた経験から得られた学びは自分を絶対に裏切らない」ということ。

やったことのないこと、考え抜いていないこと、ちゃんと学んでいないことに対しては、まったく自信が持てない。

ただ、これまで自分が考え抜いて行動してきたことについては、自信が持てる。行動すればするほど、その経験から得られた学びは自分を絶対に裏切らない。だから、とことん知識を得て、実践して、研究する。
私はそれをこの10年で知ることができた。

人に評価されることよりも、経験して、そこから学んで、次に生かしていく、そのプロセスがなによりもの自分の自信につながった。

インクルーシブな社会、インクルーシブ教育を実現するために、いろんなことをやった。お金をもらう「仕事」でも研究でも、プライベートでも。
今日は22歳から今の会社に入るまでの26歳ごろまで遡って書いてみる。

2008年4月〜2010年3月
筑波大学・修士課程に進学。
研究テーマは「アメリカにおける知的障害のある子どもへの教育課程の変遷」
この研究テーマを選んだ理由は、インクルーシブ教育を進めていく上での壁は、「何をどのように教えるか」(教育課程)だと思ったから。場を一緒にすることはある意味簡単だ。だが、そこでその子たちが何をどのように学ぶのか。誰がどのようにしてその子に必要な教育課程を編成していくのか。そこを整理しないと、インクルーシブ教育の実現は難しい。
アメリカでは、教育改革の中で、通常のカリキュラムと特別なカリキュラムを連続体として捉え、障害のある子どもも通常カリキュラムへアクセスすることを義務付ける法律ができていた。同じ場で学ぶことと、同じ内容を学ぶことをもって「インクルーシブ」との考え方になっていた。特に通常の学習指導要領では学ぶことが難しいと言われている知的障害のある子どもへのカリキュラムが、アメリカではどのように変遷していった結果、今の制度につながったのか?を研究した。
(これだけでいくらでも書けちゃうので、詳しくは本の原稿で書きます、、、論文読みたい方はぜひこちらから読んでみてください。ちなみに先日書き上げた博士論文もこのテーマ。修士は文献研究、博士はそれにフィールド調査を加えた。)

2008年11月に一つの転機。
友人ユネスコ主催の教育学会(テーマがインクルーシブ教育)に出るとの話で、「一緒に行こう!」と誘ってくれた。お金がなくて渋っていたのだが、その友人が「僕が貸すから絶対に行った方がいいよ!」とまで言うので親にお金を借りて、スイス・ジュネーブでの学会に参加。
International Conference on Educationという会で、なんと世界中から150カ国もの文部科学省が集まり、各国でどのようにインクルーシブ教育を進めるか、議論をする学会。

この学会にて、多様な立場の人(障害当事者、難民、学生、文科省)が対等に議論をするラウンドテーブルがあった。
私と友人はそれを見て、「教育は特別な人たちが語るものじゃなくて、一市民として語れるもの。誰もが当事者として教育を語る場があったら良いのではないか?」と思いつき、「日本でもやろう!」と飛行機の上で決断。
そのほかにもインクルーシブ教育を進めていくための各国の表明を聞いて、「私はこの道で生きよう」と決断。

修士で勉強・研究を進める中で、日本の特殊教育を作った人たちも「インクルーシブ教育的思想」を以下のように持っていたことを確認。さらに没頭する。

「社会が進化して、学校もあらゆる個人差をもった児童を同時に教育できるようになれば、或いは特殊学校などはむようになるかもしれない」(三木安正, 1976)

2010年4月〜2011年3月
修士課程終了後の私の選択肢は、インクルーシブ教育を実現するために、①文科省に入る ②学校現場で働く ③大学教授になる の3択。
①は多分無理だろう、と思い、②と③どちらもやってみれるように、博士課程に進学と同時に東京に引っ越し、某自治体の小学校で1年働く。

初めてがっつり学校現場に浸る。その1年はものすごく濃かった。大学で学んできたことをひたすら目の前な子どもに届けようと実践を繰り返した。先生方に何度もいろんな提案をした。うまくいかなかったことばかりだが、目の前の子どもたちからものすごくたくさんのことを学んだ。加えて、二つの学校での勤務を通して、大学では学べなかった、学校独特の文化や仕組みを学んだ。

だが、実際働いてみた結果、インクルーシブな教育を実現するために、小学校で働き続けることは、私らしいやり方ではないと思った。理由として、私は自分自身が良い実践をしたいわけではなく、良い実践が継承されたり、より良い実践が生まれ続ける持続可能な仕組みを作りたい。学校では良い実践はできるけど、それを仕組みにしていくには、一教員では時間がかかりすぎる。

同時期に、スイスで友人と決めた「教育について語る会」(Committee for Better Education, 通称CBE)を始める。月に一回集まり、教育について対話をする。ただ「対話をする」ことが目的。大学の時の友達、仕事で知り合った友達、音楽仲間、地域の八百屋さん、バーのマスター、飲み屋で知り合ったおじちゃん、子どもたち、など本当に多様な人たちが参加。


2011年4月〜2011年12月
やはり、研究しよう。自分の強みは研究ができること。研究と実践をつなぐ人になろう。そう思い、博士課程2年目は単発バイトをしながら、ひたすら研究をする。

そして、研究のみでなく、引き続きCBEを続けながら一市民として教育にかかわりたい、と思い、今後10年間のビジョンを決める、杉並区教育ビジョン策定委員会の一般公募に応募。
選んでいただき、この1年間会議に参加させていただいた。ここで知り合った方々は今もやり取りをしている。


アメリカの研究をしていたので、アメリカと行き来しながら。渡航費は親に借りて、自費で。当然、お金がなくなる。学振には、二回も落ちた。
そんな時、たまたまシカゴ時代の友達とFacebookで再開。民間企業で発達障害のある子どもたち向けの教室をやっていると言う。バイトを探している、というと、「うちで働く?」と誘われる。フルタイムで働くと研究しなくなるから、週三日でバイトをし始める。
それが今働いている会社で働き始めた経緯。

その後は半年はアルバイト、その後正社員になり、この6年間、とにかく「自分が実現したい教育をここでやってみよう」の思いでここまでやってきた。
長くなるので詳しくはまたの機会にかければと思うが、本当にいろんなことがあった。振り返ってみると、私は実現したいことに向けてひたすら行動し続けることが好きなんだと思う。一つのやり方じゃなくて、複数のやり方で。やってみて、そこから学んで、やり直したり、次やるべきことに向かう。そういう環境に出会えたのはありがたい。
散々失敗もしたけれど、この6年間私が行動し、経験したことに、私は自信を持っている。

けれど、行動すればするほど、次やるべきことが見えてくる。知れば知るほど、インクルーシブな社会をつくることは難しいし、無力感に苛まれる。まだまだやれてないことばかり。
でも、これまでの経験の中でいろんな武器を得てきた。今は、これまで学んできたことを信じて、それらをフルに活用して、次のフェーズに動き出している。
次の10年はもっと面白くなるに決まってる。

※写真はスイスの学会で出会った大好きな言葉。

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