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無自覚な「条件付き」の「多様性の尊重」「インクルージョンの推進」への違和感

「差別はよくない」「インクルージョンを目指すべき」と言葉で言うことはできるけれど、それを体現していくことはとても難しい。

よくあるのは、「インクルーシブな社会を作りたいけれど、一緒に働くのは難しい」や、「うちの子を差別して欲しくないし、差別はよくない。でもあの子はこのクラスにいるべきではない」といったケース。

not in my backyardというらしい。

「好きにならなくてもいいから、特に仲良くしなくていいから、その人のことを尊重する、存在を否定しない」という言葉はよく聞くし、その通りだと思う。

けれど、一緒に働いたり、自分の子どもと同じクラス、となるとそこに利害関係が生じる。すると、ムクムクと排除をしたくなるんだろう。理由をつけて、「あの人は排除してもしょうがない」と正当化しはじめる。障害の有無に関わらず、「排除」を正当化しはじめる。「あの人は嫌われてもしょうがない」「あの人は孤立して当然」「あの人が悪い、自分はわるくない」「仕方のないこと」。

「条件付き」の「インクルージョンの推進」「多様性の尊重」「差別禁止」だ。

私もそういう時がある。無意識に。そしてそれに気づいた時自分のことを嫌いになる。

だから、それをそのまま正当化して終わりたくない。「条件」をだしてくる自分や自分の所属する組織やコミュニティに抗いたい。最近までそう思っていた。
でも今は、そういう自分を受け入れて、抗うのではなく、そういう自分と対話しようと思ってる。その上でその人とも、周りの人とも対話する。
一対一だったらしんどいから、何人かと、その人も含めて、対話をする。

対話を繰り返して、「異質」と判断していた人と「同じ」側面を自分の中に見つけた時、つながれた時、そこには感動がある。

あとは「異質との経験値が排除をなくす」に書いた通り。

対話の中でその人自身が支援を必要としている、ことがわかるかもしれない。みんなでおぼんに乗せてみる。そして眺めてみる、

「我慢」ではなく、ぜひ「対話」を。一人ではなく、みんなで。

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以前、自分はインクルーシブな人になる、と宣言をして、来るもの拒まず、去る者追わず、をしていたら、心身ともに疲れ果てた。

その時に、「仏じゃないから無理」と言われた。その通りだと思う。

でも、特定の人がいて、誰もがその人から距離を置いたら、その人はどうなるんだろう?

誰もが「自分はこの人と合わない」「この人は仕方ない」と距離を置いたら?

社会から孤立するんだと思う。

だからそうならない仕組みが必要。

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私は「インクルーシブ」と呼ばれる、もしくは謳っている実践をしている学校や施設を見に行く時、その限界をいつも尋ねている。

オランダのイエナ・プランスクールに行った時にも校長先生に尋ねた。
「行動障害のある子どもは受け入れられない」とのこと。自分たちの限界を自覚しているのは重要なこと。

特に今いろんな方が同時多発的に「多様性」を大事にする学校や施設を作っており、それは本当に素晴らしいと思うので、せっかくなら、「多様性」に条件をつけないことにチャレンジしてほしい。そして、つけるならぜひオープンにつけて欲しい。「どんな子どもも」を見て連れていった保護者が悲しい気持ちにならないようにしてほしい。

果たして、「みんな」「誰もが」「多様な」の中には、あの子やあの人は入るのだろうか?
それとも、「想定内」の「条件付き」の「多様性の尊重」なのだろうか。

謳いながら、「条件」をつけていないだろうか。つけているのであれば、そう自覚したい。

※写真はNYのEmpire State Buildingから。

#差別 #インクルージョン #インクルーシブ教育 #排除 #差別禁止

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