【小説・MIDNIGHT PARADE】[1]midnight parade
夜が、狂乱の内に終わった。美春はその事を見知らぬ部屋のベッドの上、隣に見える骨ばった肩と、周囲に散乱する洋服を見て確認した。昨晩の記憶はある。自分の行動は覚えている。しかし、今ここに至るまでの自分の感情の経緯は今や全く掴めなかった。美春は首を捻りながら、横に眠る男の顔を眺め、昨夜の記憶を辿り出す。
私、昨日、何したんだっけ。どうしたんだっけ。尚子と二人でしつこい男を巻いて吉野家行ったのは、一昨日だし。あ、そうだ。昨日は、確か、こんな感じ。
「高校生なのー?」
目を丸くした男の大声に、美春は渋々頷いた。男が余りにもしつこく聞いてくるので、今日は仕方なく教えたが、普段、美春はここで自分の年齢を言う事はない。他人にそれを言った時の反応にうんざりしているからだ。
「いくつ?」
「十六歳」
「十六歳? 高校生? 高校生がこんな所、来てるのはまずいだろ!」
「まずいんだろうねぇ」
「そんな他人事みたいに」
こんな所と言われているのは246沿いのクラブ『ajito』だ。美春がこの場所に毎晩のように通い始めて三ヶ月。黙っていて、高校生だと見破られた事は、まだ、一度もない。
現在、時刻は午前二時。終電が出払ったこの時刻のクラブでは、今日の夜を共に過ごす人々が全て出揃ったという安心感と不思議な高揚感が溢れ出す。スピーカーから流れるのは、メアリ・j・ブライジの『MARY JANE』。その曲に腰を揺らす美春の右手には、浦霞が波々と注がれたグラス、左手には火のついたマルボロライト。それらを交互に口へ運びながら美春は、いかにもここによくいるへらへらとした男の話を適当に聞き流している。
「ていうか、今日、平日だろ。明日、学校じゃないの?」
「そうなんだよね。明日は数学と体育があってさ。嫌なんだよねぇ」
「嫌なんだよねぇ、って……。君ねぇ」
美春は、驚きの表情から一変して、苦虫を噛み潰したような顔をしている男を、肩をすくめて見やった。また、この手の奴か。美春がそう思った瞬間、男は、案の定、健全な高校生の生活態度についてのレクチャーを始める。美春は、あくびを噛み殺しながら、大体、お前だってさっき自分は大学生だって言ってたじゃん、お前だって呑気な身分は一緒じゃん、と言いたい気持ちを抑える。
周囲を見回せば、そこは人の渦だ。音楽と酒と夜が好き。共通項はそれだけしかない人々が、いつの間にか一緒に盛り上がっている。そう、ここにいる限り、共通項はただそれだけなのだ。そして、それ以外は何もいらない。
その筈なのに、こうして、やれ高校生だ、十六歳だなんて事で目くじらを立ててくるこういう男を、美春は嫌悪していた。
勝手に普通の高校生描いて、私がそれに当て嵌まらないからってうだうだ言わないでくれる?
今日の説教男と似たような事を言う誰かに会う度に、美春は、そう言ってやりたくて堪らなくなった。
無論、美春の年齢を聞いた途端、誰もがそう言ってくる訳ではない。若い美春を珍獣のように扱って「この子、高校生なんだよー」とちやほやしてくれる人間も、沢山いた。
けれど、美春はそれもまた嫌だった。その度に美春は肩を落として思う。そう、私は高校生というだけ。それ以外の何かは、けして持っていない。
だが、きっと、それは誰もが同じだ。皆、何かを持っている。笑い飛ばせない何かや、やり過ごせない何かを。
そんなものは持っていて当たり前。だから、何も言わずに笑っておく。ここにはそんなやり方がある。それぞれの蠢く心は、人混みと暗闇、喧騒と酔いと音楽に包まれて、どんな風に名付けられる事もなく放って置かれる。夜にしかない場所の、夜にしか存在しない関係で繋がる、夜にしか居場所がない人々の無頓着さ。美春は、それがとても好きだった。
美春が男に捕まっている間に、フロアは更に盛り上がっていた。歓声があちこちから上がり、人々は高揚して手を振り上げ、笑っている。美春の横では男が相変わらず愚にもつかない事をぐだぐだと言っている。美春はそれに肩をすくめて小さく微笑んだ。
ここにいる時点で似たり寄ったり、お互いさま。
そんな気持ちをこめて男の肩をぽんと叩く。そして、フロアへ向かった。
フロアの床にはきらきら光るミラーボールの輝きが舞い落ちていた。グラスを片手に踊る人々の顔の上にもその光が振り撒かれている。巨大なスピーカーの前に張り付く人間もいれば、ブースの前を陣取ってDJが回すレコードをチェックしている人間もいる。
また、一人バーカウンターからフロアへとやって来る人間がいる。次のレコードはDJの手に抑えられて、出番を待っている。まだかまだかとうずうずするような気持ちが狭いフロアに充満する。
その時、あの曲が流れ出す。
そして、誰もが諸手を挙げる。
欲しいものは、皆、結局これだけ。美春はそう思いながら、人混みを掻き分けブースの前で踊り出した。
そして、美春は、この日も大いに飲み、酔い、踊り、また飲み、酔った。そして朝、その勢いと成り行きのまま、見知らぬ男の部屋で目を覚ましたのだ。
その今夜の相手は、美春の歳を聞いた途端に説教をし始めた大学生の横で、ぽうっとしていた男だった。一緒に来てるなら、こいつ、何とかしてよ。美春は説教男に絡まれながら、そう視線で彼に訴えたが、彼はそれに全く気付かずにぽうっとしたままだった。何だ、こいつ、鈍い奴。美春は、そう思いながら、半ばやけくそで酒を飲み干した。
結局、その説教男は、喋るだけ喋ってから酔い潰れ、床にぐったりと座り込んだ。ぐだぐだになった男は店のスタッフが呼んでくれたタクシーに押し込まれ、連れの男と方向が一緒なので同乗する事にした美春に送られ、何とか家に帰り着いた。酔っ払いの介抱から、ようやく解放された二人は、車中で顔を見合わせた。
「大変だったね」
「本当だよ。俺、すごい眠い」
「私も、すごい眠い」
「じゃあ、うちで寝てく? 近いし」
一瞬の視線の交錯。そして、同時に同じ結論。
まぁ、いいか。
そんないい加減さで、二人は同じベッドに入った。
洗面所から水音が聞こえてくる。美春は、目を擦りながら、少し開いたドアの隙間から見える男の姿を確認した。時刻は午後二時。窓から覗くのは、二日酔いの目には眩しさが痛い程、晴れ渡った空が見えている。
「あ、起こしちゃった?」
タオルで顔を拭きながら、男は日差しに目を細めて言った。
「ううん、平気。もう二時だしね。おはよう」
美春は、落ちたマスカラを素早く拭って微笑みながら、彼の名前が何だったのかを考える。タクシーの中でお互い自己紹介しあったような気もするが、今や、全く、思い出せない。
「おはよう。君も顔、洗う?」
二人称を使われて、彼もこちらの名前を覚えていない、という事に美春は気付いた。お互い様だ。美春は愉快な気持ちになって更に笑みを深めた。
「うん、洗面所借りるね」
顔を洗いながら、美春はひたすら頭を捻り、彼の名前を思い出そうと試みた。頭の中をあちこち探って、ようやく美春は、虹男、という名前を思い出した。いい名前だね、などと調子のいい言葉を返したのに、早速その名前を忘れた自分に美春は呆れた。しかし、それを言ったら虹男も同罪である。まぁ、大抵あそこにいる人はそんな感じだよ。美春はそのように開き直ってまた笑った。
手近にあったタオルで顔を拭い、部屋に戻ると、虹男は冷蔵庫を覗いて、何やら思案していた。
「腹減ってない? 俺、何か食おうと思うんだけど」
「私も減った。何があるの?」
「トマトと卵とパンとハム」
「いいじゃん。オムレツでも作ろうよ」
そう言うと、虹男は卵を手渡してきた。美春は卵を割り、ボウルに落とし込む。虹男が冷蔵庫から取り出した牛乳を横に置く。美春は、引き出しをあけて菜箸を探す。
「そこのラックにあるよ」
がちゃがちゃとあちこちの引き出しを開けていた美春に、虹男がそう言って、シンクの上を指した。美春は背伸びをしてそれを取る。虹男はしゃがみこんで、冷蔵庫から野菜室からトマトを取り出した。昨日初めて会ったというのに、このように当たり前に二人して食事を作っているのが変な感じだ。そう思いながら、美春は味付けのために塩と胡椒を手に取る。
「胡椒、荒引き派? パウダー派?」
美春は、二つの胡椒の瓶を持ち、そう聞いた。虹男が、迷いなく答えた。
「荒挽き派」
「私も。絶対、胡椒は粒が大きいほうが美味しいよね」
味付けの好みが一致した事が何だか嬉しくて、美春はいい気分で塩と胡椒を振った。虹男が、フライパンにバターを落とす。美春は、トマトを輪切りにする。キッチンの隅の床に置かれたコーヒーメーカーから規則正しく水音が響いていた。冷蔵庫の上のオーブントースターからはパンの焼ける匂いが漂っている。美春は、上手にオムレツを裏返す虹男の横顔をそっと盗み見た。
寝癖のついた髪が陽に透けて茶色に見える。Tシャツの袖から伸びた腕は細いがしっかりと筋肉の形が浮き出ていて、美春が片手では持てないような大きな鉄製のフライパンをやすやすと操っている。
この人、結構、いいじゃん。料理も上手そうだし。
美春は、新たな発見にまた嬉しくなった。
出来上がったトマトサラダとパンとオムレツをテーブルに運んでいる内に、美春は何だか妙に楽しくなってきてしまった。お盆がないので、何度も部屋と台所を往復し、美春は料理を運んだ。全てを運び終わったと思ったら、スプーンを忘れた事に気付いた。ばたばたとキッチンへ戻る。
「落ち着きないな」
そう言って虹男が笑った。
「まだ酔ってるのかな、何か楽しい」
美春はそう答えてはしゃぎながら席についた。
虹男は、既に食事を始めていた。美春も、目の前にあるトマトに手を伸ばした。薄皮が口の中で弾けた後、甘い味が広がる。何気なく、いつも何処かで食べている単なる野菜に、そんな事を感じた自分に美春は驚いた。
「何これ。なんか、すごい美味しくない?」
虹男が、その言葉に冷静に返す。
「美味いね。やっぱ、朝ご飯だからじゃん」
「えー、違うよ。朝ご飯いつも食べてるけど、こんなに美味しくないもん」
「俺、普段、朝は食べないから、なんか新鮮」
「えー、駄目だよ。背、伸びないよ」
「もう二十一歳だし。元から無理」
「私はまだ伸びるかも」
「あれだけ酒飲んで煙草吸ってたら無理」
虹男が、二枚目のパンにバターを塗る。美春は、また、トマトを頬張った。やっぱり、美味しい。無農薬とか? 美春は思わず、トマトをまじまじと見詰めたが、すぐにこのトマトは先程、ローソンのラベルがついた発泡スチロールパックから取り出したものだった、と思い出した。つまり、理由は、材料ではない。
気分、二日酔い、快晴、学校をさぼっているから、その他。さまざまな原因が思い浮かぶが、どれもぴんと来なかった。
「俺、誰かとご飯作って、食べるなんて久しぶり」
虹男が、ぽつりと言った。何の脈絡もなく発せられたその言葉に驚き、美春はパンを喉に詰まらせかけた。一人、咳き込みながら、コーヒーを啜る。虹男は、そんな美春の様子を全く無視して、オムレツを見ていた。
「そっか、誰かと出来立ての飯を食うのって美味いんだな」
虹男が、もう一度そう呟いた。美春はその言葉に、一瞬呆けた。
どうしていいのかわからないまま、オムレツにケチャップをかける。勢い余って、プラスティック容器を強く握り締め過ぎた。
ケチャップが美春の手にまで飛び散る。あーべたべたするー、と叫ぶ美春に、虹男が呆れた顔をしてティッシュを投げた。
「お前、かけ過ぎ」
「お前じゃないの。美春ですー」
虹男が、うっ、と言葉に詰まった。
「名前、忘れてたでしょ? 私もだけどさ」
そう言ってにやりと笑うと、虹男も笑った。
食べ物を胃に入れたせいか、また、昨日の酔いがぶり返してきた。美春は、そろそろ帰らなければ、と思いながらも、全く動く気が起こらず、そんな自分に困惑している。
まぁ、いいや。二日酔いの朝は、だらだらと過ごすものだ。美春は、そう開き直ると、また、ベッドに寝転がった。虹男もそれに続いて、隣に横たわってくる。
まだ酔いが残る視界は、目に映るもの全てを煌かせていた。暗闇の中にいた後に見る太陽は、多過ぎる程に光を振り撒き、何故か懐かしい匂いがした。二人はその光に目を細めて笑いあった。キスの間、微笑が交錯する。美春は腕を虹男の体に回した。
「私達ってさ」
「うん?」
「馬鹿だよねぇ」
「ねぇ」
足をばたばたさせて笑う美春を、虹男も笑いながらくすぐり始める。
本鈴が鳴る直前。美春が教室に滑り込んだ瞬間、周囲の視線が一斉に集まり、そして、すぐに逸らされた。その後、教室のあちこちで始まる噂話を聞きながら、美春は自分の席に向かう。
無関心なら無関心で徹底して欲しいものだ。まぁ、でも、前よりはましか。
そう思いながら、窓際一番後ろの席につく。
今から半年前。美春が高校に入学して一ヶ月程たった頃。
登校してみたら、美春の机はその場で逆さまに引っくり返っていた。机の周囲には、美春が入学してからずっと机に放り込んでいたプリントやテスト用紙や置きっぱなしの教科書が散乱している。
何だ、これ。美春は、訳のわからない机の惨状に首を傾げた。予想もしていなかった状況に、どう反応すればいいのかわからなかった。
昨日、地震なんてあったかなぁ。そう思いながら、手近にあった教科書を拾おうと手を伸ばす。拾い上げたそれには、明らかに故意と思われる足跡が着いていた。美春はそれでようやく事態に気付いた。
美春は腕を組み、教室内を静かに見回した。廊下側、一番後ろの席にいる女子達が、肩を突き合いながら、小さく笑いさざめいていた。あれか。美春は、どっと疲れた気分でため息をついた。
美春は、彼女達から、昨日「一緒に帰らない?」と誘われていたのだ。しかし、美春は、日焼けした肌に派手な化粧をしている彼女達のルックスが余り好きではなかったし、さっさと家に帰りたい気分だったので、その誘いを断った。
もう、本当、世の中、面倒臭いな。美春はそう思いながら、窓の下にある棚の上に、足を組んで座った。
机よりも高い棚に座っている美春は、否が応にも目立った。チャイムが鳴ると同時に現れた教師の視線が自分に一直線に向かってくるのを感じ、美春は更にうんざりした。
教師が、ひっくり返った机を指して、言った。
「お前、これ、どうしたんだ?」
美春は、一つあくびをして、出た涙を拭いながら答えた。
「そんなの私が知る訳ないじゃないですか。自分の机、自分でひっくり返すような趣味ないです」
「じゃあ、どうしてこうなってる」
「知りません。やってる現場を私が見てたら、そんな事させる訳ないし」
教師は、美春を呆れた顔で一瞥した後、大きくため息をつき、教室全体を見回した。
「一体、誰がやったんだ」
白々しい空気が、教室中に充満する。勿論、誰も教師の言葉に答えない。誰も答える筈のない質問をするという教師の無駄な行為に美春は更に苛立った。棚の上で足をぶらぶらとさせながら、窓の外を見る。外は晴れているというのに、こんなつまらない事で時間を取られているのが心底馬鹿馬鹿しく感じられた。本当、つまんないよ、こういう事。そう思いながら小さく肩をすくめた。
教師が外を見ている美春に呆れたように言った。
「仕方ないな。お前、早く、机を元に戻せ」
「嫌です」
くるりと教師の方を向いてそう即答した。教師は目を丸くして美春に問い返してくる。
「どうしてだ?」
「どうしてって、こっちがどうしてって言いたいです。これ、私がやったんじゃないですもん。自分のやった事の責任は、自分で取るべきじゃないですか。それが、『良き社会人』でしょ」
美春は、棚の上から降り、黒板の上に掲げられている『良き社会人を育成する』という言葉が記された額を指し示した。小さく首を傾げて、教師に向かってにっこりと微笑む。教師は、その笑顔に応えず、情けない顔をして肩を落とした。
「そんな事、言ったって、お前、それじゃ授業受けられないだろ」
何もかもに疲れたような顔で弱々しく呟く教師に、美春はこっちだって疲れてます、と言いたくなった。朝から走って学校に来たら、机がひっくり返っていてプリントやら教科書やらがそこら中に散らばっているなんて、どう考えても途轍もなく疲れる状況である。この上、授業開始早々に机を片付けるなんて冗談じゃなかった。
美春は腕組みをして教師を見上げ、言った。
「じゃあ、私、帰ります」
教師が、更に目を見開きながら、美春の元に駆け寄ってきた。
「どうしてだ」
「いや、だって、ほら、これ、いじめじゃん」
美春は倒れている机を指差し、そう言った。教室内が一斉にざわめく。美春は、それを鼻で笑った。
「帰る前に職員室寄って、保健室寄って、あ、保健室の先生に向かってちょっと泣いてみようかな。で、教育委員会に電話して、と。完璧ー」
教師が、口をぽかんと開けた。喉の奥から振り絞るように言った。
「お前」
「したくない事はしたくないし、無駄な我慢なんてしたくないんです、私。『お前さえ黙ってれば済むんだから』って言われても、それ、私の都合じゃないし」
美春の言葉に、教師は力なく肩を落とし、呟いた。
「じゃあ、お前、どうすれば気が済むんだよ」
「やった人がこれを片付けて下さい。まぁ、でも、そう簡単に名乗り出ないと思うから、見てた人でもいいや。とにかく、誰か片付けて下さい」
美春はそう言って、また棚の上にどっかりと腰を下ろした。教師はもう何もかもが嫌だというような調子で、美春の近くにいる生徒達に、机を片付けるようにと言った。舌打ちと不平を呟く声が美春の耳に聞こえてくる。美春はそれを無視して、窓を開けて伸びをした。昨日、声をかけてきた女達がこちらを見ている。美春はそちらに目をやり、もう一度、肩をすくめた。
皆、なんでこんな胡散臭い上に、鬱陶しい振る舞いが出来るの?
美春は、毎日、学校に行きながらそう思っていた。別に好きで会ってる訳でもなく、たまたまクラスが一緒だというだけの人間に、そこまで構う必要はないだろう。嫌がらせ、ひそひそ話、背後から聞こえる哄笑を感じる度、美春はそのように呆れた気持ちになった。
その気持ちを隠す気もなかったので、美春は、周囲からますます反感を買い、「偉そうだ」と言われていた。そして、その度に美春は、自分のルールが誰にでも通用すると思っているあなた方の方が偉そうです、と思っていた。そして、それもまた周囲に伝わり、更にまた反感を買った。悪循環。美春の高校生活は、それに尽きた。
机の一件があってから、学校内で、美春は誰も触れてはいけない存在となり、もう目に見える嫌がらせはなくなった。楽になった。けれど、楽だからといってそこにいたいか、といったらそうではなかった。そんな風に馴染めない上に馴染む気もない学校での出来事に疲れ、暇に明かせて夜をふらふらしている内に、美春は、『ajito』を知った。
その前にも、彼女は他のクラブに何度か行った事があった。しかし、この場所が何となく好きだな、と思う事はあっても、現在のように毎週通うまでには至らなかった。しかし、今では毎週どころか時に週に三日もここにいる。どうして、そうするようになったのか。それは、『ajito』の店長兼DJ、白石壮一郎が理由だった。
「学校、楽しい?」
スツールに座ってウォッカトニックを飲む美春に、その日会ったばかりの誰かがこう聞いた。美春の年齢を聞いた大人達の、多くが口にする問い。美春は、それに、いつも、こう答えていた。
「学校って、楽しいとかいうものでもないじゃん」
美春のその答えを聞くと、いつも、誰もが、憮然とする。その度に、私、可愛くないなと思われているだろうな、と美春は思う。
別にあんたの為に可愛くなんてなりません。美春はそのような人々を前にすると、いつも、そう思った。けれど、そう思いながらも、苛々とした。相手に、ではない。上手く気持ちを言葉に出来ない自分に、だ。
「楽しかったらここに来ないだろ。なぁ?」
いきなり頭に乗せられた手に驚いて振り向くと、そこには『ajito』で何度か見かけた事のある髭面の男がいた。男はにやにやと笑いながら、美春の顔を覗き込んでくる。一度も話した事がない男に馴れ馴れしくされ、美春は顔をしかめた。
しかし、男は、何も気にしていないような調子で美春の肩を押し、バーカウンターに促した。
「一杯奢ってやるよ、美春ちゃん」
「なんで、名前、知ってるの?」
「近頃、有名だもん、君」
「有名って?」
「ここ、高校生向けの店じゃないからさ。君みたいな年齢の子、珍しいの。何飲む?」
男の勢いに押されて、グラスワインを頼む。礼を言って、男のグラスにグラスを合わせようとする。それを制して、男は言った。
「乾杯の前に一つ頼み事があるんだ」
改まった口調でそう言われ、美春は驚き、後ずさった。
「何?」
「あんまり、自分の歳、周りには言わないでくれるかな」
「どうして」
「クラブっていうのはさ、風営法違反な訳よ。それで未成年って、夜、出歩いちゃいけない訳よ。二つ合わさると大変な訳よ」
「それは知ってるけど、なんで、あなたがそう言うの」
「俺、ここの店長なの」
この人が、白石さん。美春は彼を見上げ、それからすぐに下を向いた。美春は、ここで会う人々の噂話や、フライヤーのスケジュール欄に出てくる白石の名前は知っていた。だが、顔は知らなかった。
やばい。まさか、こんなに噂が広がってるなんて。
押し黙り、唇を噛んだ。
日本には、夜十二時を過ぎると踊ってはいけないという決まりがある。それが、風営法だ。クラブは、元々風営法に反しているものである。その上、未成年を入れていたとわかれば、一発で営業停止だ。だから、クラブ側は未成年の客を入場させないようにする。
それを知っていた美春は、店のスタッフに自分の年齢を言わないように心がけていた。しかし、様々な人々がいるように見えて、実は狭い世界。美春の予想以上に、噂はあっという間に広まったのだ。
「私、もう、帰った方がいいですか?」
美春は、俯いたまま、白石に聞いた。もう、ここにはいられないのだ。だって、私は十六歳だ。そう考えながらも、美春は、自分の年齢と、自分の年齢でいなければならない場所を呪った。
学校じゃ、私はNGなんだよ。白石に、そう言いたかった。けれど、やっぱり自分はここでもNGなのだと知った今、その言葉を口に出せる訳もなかった。
「え? 今、酒、買ったばっかりじゃん。なんで?」
白石のあっけらかんとした口調に、美春は、意表をつかれて顔を上げた。なんでって、そっちこそ、なんで? 浮かんだ問いを発する事も出来ず、口を空けたまま白石を見上げた。
「奢って貰ったんだから、俺のDJの時にはフロアにいなきゃ駄目だろ。全く、礼儀を知らねぇな。これだから今の若いもんは」
やっぱり俺も年かなぁ、などと一人で呟いている白石を遮り、美春は言った。
「だって、私」
その言葉を遮り返して、白石が手を振って言った。
「周りに言わなきゃいいよ。そこはよろしくな」
美春は、混乱しながら、勢い込んで言い返す。
「でも、やばいでしょ。まずいでしょ」
美春のその言葉に、白石は、小さく笑いを漏らした。そして、言った。
「やばいし、まずいけどさ。そればっかり言われてんの、辛いだろ」
美春は、まじまじと、白石の顔を見た。
余りにも驚いて、言葉が返せなかった。
何これ。何なの、この人。私、こんな人に会った事なんて、ない。
押し黙った美春に、白石が自分の持っていたグラスをも渡してきた。照れたように少し笑って、こう言った。
「誰だって、誰かにOK出して欲しいだろ」
美春は、白石をじっと見た。小さく頷き、呟いた。
「それで、いいの?」
その言葉を口に出したら、何故だか涙が滲んで来て、美春は俯いた。小さく縮こまった美春の頭に、ぽんと手の感触がする。白石の手だった。
白石は美春の頭をぽんと叩き、言った。
「ここはそういう所なの」
『ajito』で白石がDJをする金曜日。美春は、それから、必ずこの日に『ajito』へ行くようになった。常連達に声をかけられ、エントランスからフロアに行くまで随分と時間がかかるこの夜。
「久しぶり! 元気かよ」と肩を叩かれ、「今来たの? いいから飲めよ」と酒を手渡され、気が付けば、止まらない音楽に踊らされている。
ミラーボールを見上げ、嬉しい気持ちを抑えきれずに笑う。すると、近くで踊る見知らぬ誰かが美春に向かって笑い返す。
OK、今夜も楽しもう。
美春も、それに再度、笑顔を返した。
瞬間、学校での出来事は、全て、美春の頭から消え去った。
時刻は、午前二時。真夜中が必要な人々と、真夜中に必要なものは、全部この場所に出揃っている。
DJは勿論、白石壮一郎。尖ったギターのイントロダクションが鳴り響く。曲はラブ・タンバリンズの『Midnight Parade』。
美春は、夜に、感謝する。
この小説は、20年ほど前、東京でフリー・ソウル・ムーブメントが全盛期だった頃の渋谷のクラブに集う人々をモデルにした連作短編風の長編小説です。
出てくる音楽は全てその頃にかかっていた曲。90年代に夜遊びをしていた方々なら、懐かし過ぎて感涙なはず。
もとは16歳の時に書き始めたこの作品は、本当はデビュー作になる予定だったが、いろいろありまして頓挫し、長らく放置していまして。
で、放っておくのももったいないので無料公開しようとしたら、なんと今日は、Love Tambourinesのellieさんの誕生日らしい!
ひゃー!
タイトル曲はこちら。今も元気ない時に聞くと勇気が出る曲。
ちなみにわたしは高校生の時、ellieさんに憧れてスパイラルパーマをかけてました。もちろん今も大ファンです。
名曲のタイトルをお借りしてドキドキなんですが、全27回、順次アップしていきます。
作家/『ILAND identity』プロデューサー。2013年より奄美群島・加計呂麻島に在住。著書に『ろくでなし6TEEN』(小学館)、『腹黒い11人の女』(yours-store)。Web小説『こうげ帖』、『海の上に浮かぶ森のような島は』。