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窪みの中にいた者と湧き上がる汽笛【祖父・三谷昭と新興俳句を巡る冒険】(六)

S原に紹介された美女、O野は緊張した面持ちで「読ませていただきました。わたし、この作品、すごく好きです」と言った。

前回に書いたように、その時、小学館に送ったのはフリー・ソウル・ムーブメントの頃の渋谷にあるクラブを舞台に、主人公が入れ替わり立ち替わり変わる連作短編小説、『MIDNIGHT PARADE』だった。2022年現在、noteで無料公開中である。

S原はその連作短編の中でも全体のストーリーラインの主軸になる、女子高生とフリーターが恋人同士になる一章に対して、こう言った。

「これ、いいよ。これ、芥川賞獲れるよ」

その言葉に当時は驚いたけれど、今振り返って思い出すのは、その時のS原の嬉しそうな顔だ。
首を横に振りながら、いかにもご満悦というように、にやけていた。

そして、S原はわたしに向き直り、膝に手を付いて深々と頭を下げた。

「もし本を出すなら、うちで出して欲しい。お願いします」

はい、とも、いいえ、とも言えず、わたしはまたも呆然としていた。

その時のわたしが持っていたものは、誰に求められたわけでもなく、たった一人で、自分の伸ばした手すら見えないような霧中にいるような気持ちで、それでも書き上げなければいけないという気持ちだけを命綱のように握り締めて書いていた小説とも呼べないようなものだけだった。

無名の何の後ろ盾もなく、何か人に自慢できるような経歴を持っているわけでもない人間が書いた小説なんて、一般的に出版社の人間から言えば99.999%ぐらいはゴミである。わたしはそれを自覚していたし、だからなかなか書き出すことが出来なかった。

お前なんてゴミだと言われるのが怖かったから。自分自身で、ああ、やっぱりわたしはゴミだな、と思うのが怖かったから。

この話が、「わたしはかつて大手出版社の人間に認められたことがある」という過去の自慢話に見えるのもわかっている。

けれど、わたしが忘れられないのは、そのことではなく。

「芥川賞だって獲れるよ」と言った、その時のS原の嬉しそうな顔だった。

さて、前述の「何の後ろ盾もなく」という言葉に、そもそもわたしの祖父が世に知られている人間である、ということからこのマガジンは始まっていなかっただろうか、と疑問に思う方もいるだろう。

ただ、当時のわたしは本当に、祖父のことを知りもしなかった。

ここから数年に及ぶ原稿の推敲の日々に、わたしは祖父の残した足跡を知ることになる。

その時のわたしは、自分に担当編集者が着いたということも、よく理解していなかったように思う。ただ、それこそ、その年の一番の大ヒット作品を手がけた編集者が深々と頭を下げ、「出版するならうちで」と言ってくれたことが、本当にぴんと来ていなかった。

上記で、『無名の何の後ろ盾もなく、何か人に自慢できるような経歴を持っているわけでもない人間が書いた小説なんて、一般的に出版社の人間から言えば99.999%ぐらいはゴミ』と書いたが、わたしの自分の小説に対するイメージはそんなものだった。だから、S原の言葉に驚いたのだ。

こんなもの、こんな書きたいと思う気持ちなんて無ければ、もっと楽に生きられるし、こんな辛い、怖い思いをしなくて済むのに。

わたしは自分の書きたいという衝動に対して、そんな風にしか思っていないし、今もそのある種の投げやりさは変わらない。

ただ、若い頃に感じていたその感情は、もう、持っていても疲れるだけだな、とも思っているし、よく胸のうちを探ってみたら、その『恐怖と苦労と、そこから抜け出て未知の煌めきに触れる瞬間』に、わたしはどうしようもなく惹かれているのだ。

ミヒャエル・エンデの『ジム・ボタンの機関車大旅行』に、地下の暗いトンネルを通り抜ける途中、壁面と天井にびっしりと宝石が連なっている場所を通り抜けるシーンがある。

古今東西の冒険は、そんな風に暗いトンネルを潜り抜けるシーンがあるからこそ成り立っている。

さあ、ここからはわたしが『生涯でこんなに辛いことはない。この辛いことを自分で進んで選んだことがむしろ嬉しい』と思うぐらいに辛かった数年間の話になる。

しどみ野の窪みよ遠く湧く汽笛
weblio辞書 現代俳句データベース(俳句)  三谷昭

しどみ野とは草木瓜の木の原っぱのこと。しどみは低木で、草木に埋もれるように咲く。

あの頃のわたしは、草木に埋もれる草木瓜の窪みにいたような者だった。けれど、遠くから、汽笛が聞こえた。

その汽笛が、呼び声が、今もわたしにこうして文章を書かせている気がしてならない。

(七に続く)

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作家/『ILAND identity』プロデューサー。2013年より奄美群島・加計呂麻島に在住。著書に『ろくでなし6TEEN』(小学館)、『腹黒い11人の女』(yours-store)。Web小説『こうげ帖』、『海の上に浮かぶ森のような島は』。